0-3 開店

     ◆


 喫茶店は急速に形になり、様々な登録も終わり、九月の頭には開店した。

 店の名前は「俗典舎」である。

 賀来には不思議な名前で、むしろ響きが悪く感じられた。それがアリスが口にすると、どういうわけか自然に響く。

「俗典舎ってどういう意味?」

 まだ誰も客が来ていない店で、賀来はカウンターの向こうにいるアリスに訊ねた。

「そうですね、聖典って言葉、わかりますか」

「まあ、よく知らないけど、コーランとか、聖書とか、そういう感じ?」

「そういうイメージです。それで、この店にあるのはそういう神聖な書物じゃなくて、もっと一般的で、特別に偉大でもない、俗な本、ということを意味しているんです。俗典というのはそういう意味の私の造語のつもりです。辞書も引きませんでしたけど」

 なら、舎という表現は、むしろ雰囲気ということかな、と賀来は考えた。室、じゃ、少し雰囲気が違うし。

 アリスは当初の計画の通り、会員制にすることにしたのだけれど、現時点では賀来だけしか客がいない。

「宣伝でも打ったら?」

 そんな賀来の老婆心に、必要ないですよ、とアリスは笑う。

「ふらっとやってきたり、誰かに誘われたりしてここに来た人が、そのまま馴染んでいくのが私の構想です」

「こんな様子じゃ、百年経っても客は来ないよ」

「じゃあ、賀来さんが誰かを紹介してくださいよ」

 誰かねぇ、と考えながら、既に一人は頭にあった。

 十月になった頃、賀来はどうにかこうにか、その人物、遠藤という女性を俗典舎に連れて行った。その時にはどういうわけか、一部の読書狂がこの店に気づき、会員も増えつつあったので、無理に遠藤を誘う必要もなかったのだが。

 それでも遠藤の読書好きは賀来も感心していたし、アリスの願望のためには、遠藤は格好の「芋づる」になるだろう。遠藤を引っ張れば、他にも何人かがまさしく芋づる式に引きずられるはずだ。

「すごいところにあるわね」

 それが遠藤の最初の感想だった。ただ、何か普段と違う。なんだろう?

 カウンター席に並んで座って、賀来はすでに紅茶を飲んでいる。正直、落ち着かないのだ。

 逆に平然と、遠藤は本棚の方へ行き、じっくりとそこを眺め始めた。

 アリスが賀来のところへおやつを持ってやってくる。この日はスコーンと二種類の手作りジャムである。

 彼女は不思議そうに遠藤の背中を見つめ、その遠藤はじっと動かない。

「どういうお知り合いですか? その、だいぶ年の差がありますけど」

 こらえきれなかったアリスの不躾な質問も、賀来には慣れっこだった。

「昔、家庭教師をした。まぁ、面白い子だよ」

 納得した顔でアリスは賀来のカップに紅茶を注ぎ直した。ただアリスも今日はいつもと違う気がする。

 アリスとアヤメの関係と同じなのだ。アヤメは正確な年齢はわからないけど、アリスが小学生の時にはすでに大学生で、そしてアリスと対面したのも、家庭教師のアルバイトがきっかけだったと、賀来は知っている。

 当のアリスがいうところでは、国語の勉強は本を読めばそれで終わり、とアヤメは豪語し、アリスは普通に勉強しながら、読書を始めたとのことだ。

 それでもアヤメもさすがに、自分の前にいる小学生が、ほとんど奇跡と狂気の混合物にして稀なる創造物としか思えない、圧倒的な読書魔になるとは思わなかっただろう。

 遠藤が席に戻ってきて、その手にはサイモン・シンの「フェルマーの最終定理」がある。賀来はもちろん、アリスも読んでいる名作で、二人からすれば遠藤だってすでに読んでいることは自明だった。

 賀来自身も本を手に取り、こちらは山田風太郎の「甲賀忍法帖」である。

 静かな読書の空気が喫茶店に満ちて、ほとんど音がしない。煩わしい太陽の光さえも届かず、まるで穴倉の中で、人生が滅亡する瞬間を前にして、そんな重大事から必死に目をそらすように、賀来も遠藤も読書に打ち込んだ。

 急にピアノの音がして、蛍の光が演奏され始める。賀来は顔を上げ、遠藤はアリスの背中を見ている。

 二人は演奏が終わるまで、そこにいた。ひっそりと最後の一音が空気に溶け、二人は席を立った。

「面白い店でしたね、どうやって発見したんですか?」

 店を出て、ラーメンでも食べようと駅の方向へ向かいながら、遠藤が訊ねてくるのに、賀来は正直に答えた。

「アヤメというウエイトレスがいる。彼女も君と同じ、僕の生徒だよ。年齢は君より上だけどね」

「へぇ、知らなかった」

「あの店に通えば、そのうち、会えるよ」

 賀来はそんな風にやり過し、二人でラーメンをすすってから、解散になった。

いや、解散の前に、遠藤は妙なことを言った。

「賀来さんって、どこかすっとぼけてますよねぇ」

「すっとぼけている?」

「私、知ってましたから」

知っていた?

確認する間も無く、また今度、と遠藤は離れていった。

 賀来は遠藤の言葉を吟味して、答えが出ないままで秋葉原を歩いて抜け、御徒町の駅前を通り過ぎ、上野方面へ歩いた。秋葉原に近いところで生活しているのは、まったくの偶然だけれど、その偶然に今は感謝していた。

 暇さえあれば、俗典舎に行けるのは、ありがたい。

 どうやらアリスの構想が成功したことを示す例が自分だと思うと、賀来は路上で思わず笑みを浮かべてしまう。

 本好きが集まり、そこから離れられなくなる。そしてどんどん、読書家、読書屋、読書狂が集まり、店は軌道に乗ることになる。

 アリスはまだ商売として店をやる気はないようだけど、賀来には好ましいコンセプトの店で、十分に客を呼べるだろうと、今は想像できた。

 そんな空気がするのだ。

 その次に賀来が俗典舎に行った時、やはり見知らぬ顔の客がいるのを見て、思わず心の中で頷いてしまう賀来だった。アリスの夢は、現実になりつつある。

 カウンターの向こうで「いらっしゃいませ」とアヤメが応じる。賀来は定位置にしているカウンター席の一つに腰を下ろし、紅茶が用意され、この日のおやつのパウンドケーキが出てきたのを前に、手ぬぐいで手を拭う。

 今日は何を読もうかと、本棚の方を眺めながら、片手でティーカップを手に取った。

 その数日後に起こることを、この時はまだ、誰も知らない。




(続く)

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