0-2 リフォーム
◆
雑居ビルの事務所スペースは三日で片付き、四日目に三人で協力して本の段ボールを一度、隣の空いているスペースに移し、これで喫茶店を開業するスペースにあるのは粗大ゴミだけになった。
と言っても、本の入った箱を出してしまうとガランとしている。
その後にすぐ業者が入って内装を整え始めたので、賀来にはどうなっているのか、知る術がなかった。しかしアヤメから内覧会の日取りを伝られて、アリスも歓迎すると言っているので、賀来は八月の暑い日、雑居ビルに出向いた。
最上階でエレベータを降りたところで、真新しい何かの匂いがした。塗料のような化学的な匂いだ。
目の前にあるドアからして全く別物になっている。洗練されたデザインで、ステンドグラス風だった。
そっと開けると、軋みもせずにそれが開く。
「こいつはすごい」
賀来は中を覗いで、思わず声を失った。
新品のデザイン性の高いテーブルが二つ、壁際にある。前は影も形もなかったカウンターが設置され、そこには二席が用意されている。
光を反射する木目のある床を踏んで、賀来はカウンターに触れ、椅子に触れる。
まったく、本当に喫茶店になった。
「いらっしゃい、賀来さん」
奥からアリスが出てくる。
「すごいな、こんな風になるのか」
「両親にだいぶねだってしまいました」
おどけた返事だけど、きっと親の方からこの可愛い娘の望みを叶えようとしたのだろう。
それでですね、とアリスが切り出す。
「あの本棚に本を移したいんですけど、助けてくれますか?」
「本棚?」
アリスの視線の先を追うと、空っぽの本棚が三台ある。全部が本で生まれば千冊、いや、二千冊は超えるだろう。
そしてそれだけの本はすぐ間近にある。隣の貸事務所のスペースに。
「書斎というのはこのことか」
「読書という趣味と、お菓子作りという趣味が両方、楽しめるんです」
「喫茶店経営はそんなに簡単じゃないと思うがね」
無意識に賀来が釘を刺しても、この朗らかな高校生は平然としている。
それからカウンターの内側、調理室を見せてもらい、そうしてから本の移動が始まった。
アヤメも遅れてやってきて、三人でダンボール箱を運び、とりあえずの本棚の前に中身を積み、空いた段ボールは潰していく。埃がすごいので、段ボールを片付ける作業は外の通路でやっていた。
夕方にはおおよその作業が終わり、賀来は汗をかきながら、折りたたまれた段ボールを紐で縛り上げ、そして既に縛ったもの山に積み上げた。
「お茶にしましょう」
真新しいドアが開いて、アリスが顔を出す。
「そいつはありがたい」
賀来は手を払って、室内に戻った。
アヤメはまだ本棚の前にいて、床に積んだ本を次々と棚に入れていく。
しばらく賀来は本棚を見ていた。
いい本棚じゃないか。
ジャンルの偏りはないし、年代の偏りもない、作者の偏りもない。
極端な乱読家の書棚だけれど、賀来には読書に関して持論があった。
人生を通して、一つのジャンルだけしか読まない読書家なんていないのだ。どこかで脇道に逸れて、そちらに熱中し、いつの間にか脇道が本当の道みたいになる。そんなことを繰り返せば、こだわりなんてなくなってしまう。
お茶が入りましたよ、とアリスの声がして、アヤメが顔を上げ、賀来もカウンターの方を見た。紅茶の匂いが、本の匂いと埃の匂いの間を通り抜けてくる。
賀来とアヤメで並んで座り、紅茶の注がれたカップを観察する。いかにも高級そうなティーカップなのだ。ティースプーンでさえも細かな文様がある。
「本当に金持ちなんだな」
たまらずに賀来が言うのに、三年前のお年玉で買いましたと堂々とアリスが答える。三年前? 中学生がこんなティーカップを買うものだろうか。
紅茶は賀来が今まで飲んだ中で、一番美味い紅茶だった。
この店が開店したら、入り浸る事にしようと賀来は自然と心に決めた。
休憩が終わり、今度は三人で本棚を形にしていく。本棚はみるみる空きスペースを失い、床に積まれていた本が全部、そこに並んだ。
骨董品のような壁掛け時計を見ると、十八時を指している。
「まだ私の本棚っていう感じじゃないですね」
壮観な光景を目にして、アリスは嬉しさ半分、違和感半分という感じである。賀来もまた、この本棚がただ、本が詰まっているだけに見えた。本を読む人間は、本能的に一冊一冊にふさわしい位置を考えるのかもしれない。
「まぁ、ゆっくりと整えていけばいいわ。さ、掃除をして、帰るとしましょう」
アヤメの号令で、三人で店中を清掃して、十九時には解散だ。
「賀来さん、ちょっと本屋に寄りましょうか」
アリスが手を振って離れてから、アヤメにそう声をかけられ、賀来は柄にもなく動揺したが、その動揺は口元を追うヒゲで、ほとんど外部には露呈しなかった。
「この辺りで一番大きいのは、ヨドバシかな」
「そうなりますね。ま、気負わずに行きましょう」
笑い混じりの、気負わず、という言葉は、つまりアヤメは賀来の心の内に気づいたことを意味するんだろう。敵わんな、と思いながら、賀来はアヤメと並んで宵の口の秋葉原を歩き始めた。
有隣堂で二人は何冊かの本を手に入れて、アヤメは電車に乗るために秋葉原駅へ消えていった。
一人になって、賀来は手元の本の重さを感じつつ、帰路に着いた。
(続く)
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