第0話 あの日の彼女たち
0-1 本の山
◆
こいつはとんでもないな。
そう思いながら賀来は雑居ビルの最上階にある、元は何かの会社の事務所だったスペースを見た。
段ボールが数え切れないほど山積みになり、埃をかぶっている。窓はあるが、汚れでほとんどすりガラスと化していて、初夏のまぶしい光もここでは縁遠い。
「まぁ、箱の整理だけだから」
アヤメと呼ばれることになる女性に促され、まあな、とヒゲの中でモゴモゴと言いつつ、賀来は空間に踏み込んだ。
電気は通してあると聞いているので、確かに明かりは灯った。しかし四つに一つしか点灯しないので、焼け石に水だ。
仕方なく窓までどうにかたどり着き、それを開けた。幸いにもアルミサッシは滑りがいい。
新鮮な空気が入ってくるのと一緒に、大量のほこりが舞い上がり、賀来は思わず咳き込んでいた。アヤメもだ。そしてその向こうにいる高校生の少女も。
「こんなになっているとは知りませんでした」
アリスと呼ばれる少女は、不動産屋の一人娘で、今は有名私立高校の一年生だった。
「とにかく、本を回収しましょう」
「一度運び出して、また運び込むとは、まさしく引越し屋だ」
「そうしないとゴミだと思われて捨てられてしまいます」
少女の至極まっとうな意見に、それもそうだ、と賀来は頷いて、ダンボール箱の山を崩して、適当にアヤメとアリスに割り振った。
風が吹くたびに少しずつ綺麗になっていく空気の中で、三人は箱の中身を検めた。
「あらら、司馬遼太郎が入っているわね。懐かしいわ。賀来さんは何が好き?」
そうアヤメに話を向けられ、本の埃を払い、タイトルをメモして、脇に置いて、また次の本を手に取る、という行動を機械的に行っていた賀来は手を止めて少し考えた。
「司馬遼太郎は、「城を盗る話」だな」
「ものすごくマイナーね」
「いい具合の悲劇だな。上手く行きそうで行かない。いや、あれは成功したのかな」
「私は「関ヶ原」。島津の敵中突破は好きな場面」
もっと別の場面があるだろうと、賀来は記憶を探った。しかし上手く辿れそうになかったので、すぐに諦めて、口をついた言葉はいい加減な返事になっていた。
「関ヶ原が一日で決着するんだもんな、歴史というのはわからない」
そう言った後、ちょうど賀来がいじっている本からも時代小説が発掘されてきた。
「池波正太郎が出てきたな。一番好きなのは「剣客商売」だが、アヤメは?」
「「鬼平犯科帳」も好きだけど私も「剣客商売」が好きかな。主人公が老人というのは、結局、何年経っても真似できないし、他の作家も使えない、鬼札になったからね」
二人とも、仕事をしてくださいよ、とアリスが口を挟む。
三人で黙々と書籍の一覧を作り、昼過ぎに揃って外へ出て、服から埃を払い落として、一番近いカレー屋に入った。いつも秋葉原へ繰り出す様々な趣味人で満員の店だ。
「あれだけの本をよく集めたものだ」
カウンター席に並んで座り、カレーを待ちながら賀来がそう言うと、アリスは恐縮したようだった。
「本を読むことだけが趣味で……」
「立派だと褒めているんだよ。すごいことだ。何冊くらい読んだ?」
「二千冊ほどです」
ふむ、と頷くことができる自分もまた、どこかおかしいのだろうと、賀来は急に可笑しくなった。
賀来自身、かれこれ何十年もかけて数千冊は読んでいる。アリスとまったくの同類なのである。この世界に隠れ潜んで生きている、読書家、いや、読書魔という生き物。
カレーを食べ終わり、雑居ビルに戻り、日が暮れるまでかけて作業を始めた時にあった段ボールの山は二つにわかれ、とりあえずは三分の一が綺麗に積まれ、残りの三分の二はまだ埃をかぶっている。
「三日で終わるから、来週だな」
この日は土曜日で、明日も作業を続ける予定だ。賀来は珍しく仕事が忙しく、アヤメも仕事があるので、平日は時間を作れない。アリスは当然、学校だ。
明かりを消して外に出て、「賀来さん、ちょっとは男気を見せてくださいよ」とアヤメに言われて、「男気など幻想だ」と賀来はやり返し、しかし「飯に行こう」と自分から言っていた。
三人で秋葉原さえも脱出して、両国まで歩いた。電車を使うべきなのだが、アヤメが運動になると言ったのに、誰も反論しなかった。
通りを歩きながら、三人で小説の感想を言い合い、どの作家のどれがおすすめとか、どのシリーズはどれから入ると上手く馴染める、逆にそれから入ると息切れするとか、そんなことを自由に意見交換する。
辿り着いた先は元は力士が経営しているちゃんこ鍋屋だ。
「暑い時期にちゃんこ鍋なんて、汗で化粧が落ちるじゃないの」
アヤメがそういうのも構わず、賀来は中に入り、席に着くなり個人的に気に入っている鍋を三人前で注文した。アヤメとアリスは店の中をキョロキョロと見ている。
「どうしてあんな場所に店を構える?」
お手拭きで手をぬぐいながら、賀来が訊ねると、アリスは苦笑いするだけだ。
「あんなところじゃ、儲からないだろう」
深追いしてみると、少女は控えめな口調で答えた。
「まぁ、今のところ、私の書斎みたいなものですから」
書斎ね、と呟くしかない賀来である。
アリスという少女の実家の資産はよく知らないが、雑居ビルの最上階の一角を喫茶店に改造するくらい、何のこともないのだろう。
ただ、金を持っていることと、金を捨てることはまるで別だ。
彼女の両親には、どこかに、何かしらの経験、人生訓のようなものがあるのだろうと、賀来が勝手に考えているところに、鍋がやってきた。湯気が立ち上り、心おどる匂いが漂った。
鍋をつつき始め、アヤメはアリスに従業員をどうするか、話している。とりあえずはアリスとアヤメだけでやろうとアリスが言っていた。
食事が終わり、締めのうどんも完食し、満腹で店を出ると、とっぷりと日は暮れ、夜の空気が出迎える。
「じゃ、私はアリスちゃんを送っていくから」
「私は少し歩くことにするよ」
そう応じた賀来に頷き返し、アヤメの横ではアリスが「ありがとうございました」と深く一礼した。
タクシーに二人が乗ってから、賀来は秋葉原に向かって元来た道を歩き出した。
頭の中にあるのは次に読む本のことと、今日、あの雑居ビルで一瞬だけ見た本のことだった。記憶をたどって、タイトルからどういう作品だったか、思い出していく。
夜なのに、どこかでカラスが鳴いた。
(続く)
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