9-5 毅然とした背中

      ◆


 ベンチの前に立って、僕は少しだけ呼吸を意識してから、言った。

「座ってもいい?」

「どうぞ」

 少し大人っぽくなったニコルが許してくれたので、僕は彼女の横に腰を下ろした。

「最近は、どうしている?」

「大学生になりました」

 ニコルの声はどこか平板で彼女がまだ、元の彼女に戻れていないことがうかがえた。もしかしたらもう、あの頃の彼女は永遠に失われてしまったのかもしれない。

 でも今のニコルに魅力がないわけではないのを、忘れちゃいけない。

「手首は大丈夫?」

 そういった僕の方を、彼女が振り向いた。視線がぶつかる。

「手首。僕が握りしめて、痛かったよね」

「ええ、その、アザは消えました」

「なら、良かった」

 言葉を言い終えてから、思い出させるようなことを言うのは、いけなかったかもしれない、と少し考えた。でもニコルがすぐに言葉を発したので、その考えは否定されたと思う。

 この時のニコルの言葉は、はっきりとした輪郭を持っていた。

「あの時のことを、よく思い出します」

 彼女も僕も、視線を交錯させている。

「十束さんが、私を助けてくれた時のことです。あの時の十束さんのことを思うと、少しだけホッとします。怖さもありますけど、でも思い出すと、安心します」

「僕は大したことはしていないよ。逃げただけだし」

「いいえ。十束さんがいなかったら、きっと、酷いことになっていました。だから、十束さんは私の恩人で、特別な人です」

 特別な人、という言葉に、今までにない距離を感じた。

 近いわけではない、はっきりと隔たった距離。

 僕と彼女の間にあった特別と言える要素、共有と共鳴の間合いは、今の彼女の言葉にはなかったのだ。

 もっと距離のある、惑星と衛星のような関係にも思える、繋がっていながら決して交わらない関係。

 不思議な力で引き合って、どちらもどこかに飛んでいくのを補い合っている。

 それは、遠ざかることもないかもしれないけど、近づくこともないような関係なんじゃないだろうか。

 僕は何も言えずに、彼女を見ていた。ニコルも、僕を見ている。

「また会ってくれますか?」

 囁くような弱い声で、ニコルが言った。

 僕は少し考え、「良いよ」と答えた。良いよなんて言いながら、なんて距離を感じさせる響きの声なんだろう。

 僕もニコルのように、二人の関係をより明確に、同時に遠い場所に置こうとしている。

 言葉が何も当てはまらない、さりげない存在。

 すっとニコルが立ち上がったので、僕は彼女を見上げた。

「みんなには会っていかないの? アリスさんにも?」

「みっともないですから、もう帰ります」

 そういえば、どうしてニコルはここのことがわかったんだろう? 誰が伝えたのか、それは不思議だ。アリスだろうか。

「じゃあ、ありがとうございました、十束さん」

「うん、気をつけて。また」

 ニコルは頭を下げて、ゆっくりと歩いていく。確かな足取りで、その背中には毅然としたものがあった。

 ニコルはこれからも、まっすぐに歩いていけるだろう。きっと、恐怖や疑念を振り切って。

 僕はベンチから立ち上がり、ブルーシートへ戻る。みんなは会話に夢中で、どうやら僕とニコルには注意を払っていないようだった。それもそうか、アルコールが入っていて、視野が狭いんだろう。

 アリスの横に腰を下ろすと、出来上がりつつある賀来さんが僕の紙コップにワインの最後の一滴を注ぎ、「買い出しに行くぞ、青柳!」と立ち上がる。私も行きますよ、とミストさんが立ち上がり、青柳もいやいやそれについていく。エレナは気づくと眠りこけていた。

 こうしてブルーシートには僕とアリス、遠藤さんが残った。

「話ができたみたいね」

 紙コップを傾けつつ、遠藤さんがそんなことを言ったので、この人がニコルに話をしたようだと理解できた。アリスの方を見ると、微笑んでいる。アリスも知っていたのか。共犯とはね。

「ちゃんと区切りをつけられた? 十束くん」

 遠藤さんの問いかけに、どう答えればいいかは、すぐには見出せない闇の中に言葉が埋もれていて、拾い上げられない僕だった。

 区切りはつけられたと思う。

 もっと悲しいはずなのに、僕は時間を経たことで、少しずつ悲しみを予測して、すっかり準備が終わっていたようだった。

 だから自然と今、受け入れているのか。

「お陰様で」

 そう答えるしかなかった。ワインを少し口に含むけど、うまく飲み込めず、苦労して無理やりに飲んだ。

「まぁ、すぐに次の人が見つかるわよ。そういう年頃だから。ね? アリスちゃん」

「適当なことは言わないでください、遠藤さん!」

 アリスが素早く言い返すのに、嬉しそうに遠藤さんは笑っていた。

「十束くんはまんざらでもない顔だけどねぇ」

 アリスがこちらを見るのに、僕は目を丸くしてみせる。

「まんざらな顔って、どんな顔だろうね?」

 そう質問してみせると、知らないですよ、とアリスはワインを一気に煽った。遠藤さんがケラケラと笑い、その時にはアリスの様子が可笑しくて、僕も笑っていた。

 遠くで声がして、そちらを見ると、ミストさんと青柳に抱えられて、賀来さんが運ばれてくる。

「大変! 何しているんですか!」

 素早く立ち上がったアリスが、三人の方へ駆けていく。どうせ寝かすんだろうと、僕はブルーシートの上を片付けた。

「十束くん」

 急に遠藤さんが低い声で言った。

「アリスちゃんのこと、ちゃんと考えなさいね。これは逃げちゃいけないことよ」

 真面目な遠藤さんの顔を前にして、僕は無言で頷いた。

 パッと遠藤さんも笑顔になり、そこへ賀来さんが運ばれてきて、それきり遠藤さんも真面目な顔になり、横になる賀来さんの世話を始める。

 何か呻いているけれど、どうにか音は声に変わった。水をくれ、と賀来さんが言うので、買ってくるよ、と青柳がどこかへ走っていく。ミストさんはジュースのために用意していたロックアイスを流用して、ビニール袋で氷嚢を作っている。

 即席の氷嚢を賀来さんの頭や首筋に当てているミストの横で、動転したアリスは、賀来さんの手首を掴んで脈を取っていた。

 遠藤さんと僕は、そんなすべてがおかしくて、ただ笑っていた。

 ひらり、ひらりと、桜の花びらが舞い降りてくる。

 風がザァッと吹いて、桃色の波が空中で波打った。



(第9話 了)

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