9-4 変わっていくこと
◆
アリスとの関係は、最初こそぎこちなかったものの、すぐに元通りに戻った。
僕が明確な返事をしないことが、逆に返事となったようだ。
アリスを悲しませるのは本意ではないけど、今、アリスとの仲を変えていくのは、裏切りだと思っていた。その思いもまたアリスを悲しませるのがわかってはいても。
三月が終わり、大学生活が再開される。三年生になるので、いよいよ卒業やそれから後のことを考えないといけない。サークルの連中が僕が始めて会った時、つまり一年生の最初から何も変化しないので、落ち着く気もすれば、彼らの姿に自分を見て、不安になったりもする。
授業が開始される頃、僕はやっぱり秋葉原に通っていて、週末の土日の両日ともを過ごすこともあった。読む本は自然と小説から、卒業論文やゼミのための参考文献に変わっていた。
店にも変化があり、アリスが短大を卒業し、ついに俗典舎に本腰を入れ始めたのは、大きな変化だった。今まではお代わり自由の紅茶と日替わりのおやつだけだったのが、紅茶の種類を二つから選べるし、おやつも三種類から選べるように変わった。
メニューの拡張に合わせて料金も変わって、五百円均一じゃなくなった。
それもあってか、ふっつりと姿を見せなくなる客もいたけれど、逆に自然と入ってくる客もいる。
そう、これも大きな変化だ。会員制じゃなくなったのだ。ブックカフェという形を鮮明にして、今まではなかった看板が、雑居ビルの外の入り口に立てられている。
変わらないのは僕と賀来さん、青柳くらいなもので、他の面々で生き残っている顔ぶれも、来店する頻度が変わるのも、やむをえないだろう。
「私もそろそろ、よそを開拓するべきかもしれないね」
ある時に賀来さんがそんなことを言い出して、危うく持っていたカップを落としそうになった。
「何言っているですか、賀来さん。ここは賀来さんのための場所じゃないですか」
「かもしれないがね、引っ越しみたいなものさ」
急に老成したような年齢不詳の男性は、やっぱり口元がヒゲで覆われていて、目元でだけ笑っているとわかる。そのヒゲが少し白くなったのは、勘違いだろうか。
アリスは忙しそうに働いていて、僕と話をするのは閉店時間の後だけど、新規の客は閉店時間まで居残ることもあり、アリスはだいぶ疲れているようである。
それでも毎日、彼女は本棚を整理し、その整理の必要性は店の変化に伴って重要になってきた。
アリスの心の本棚だったはずの、その三台の大きな本棚は、今やアリスの手を離れようとしているように、僕には見えた。
「馴染みでお花見に行きましょうか」
そうアリスが言い出したのは、四月になって間もなくの頃で、東京では桜が開花したという話題がニュースなどでも取り扱われていた。
店には僕と賀来さんがいて、時間は少し閉店時間を過ぎている。アリスがそのタイミングでそう言ったのは、他の客に聞かせないためだろう。
「誰が集まるんだ?」
賀来さんが訊ねるのに、アリスは顎に手をやった。
「私と、ミストさんと、エレナちゃんと、十束さん、賀来さん、青柳さん、遠藤さん、くらいじゃないですか?」
「そりゃちょうどいい人数だな。そして穏やかに桜を見れそうだ」
そんな賀来さんの言葉で、このお花見の計画が走り出し、あっという間に話が伝わり、十日後の昼過ぎ、僕たちは都内の公園に集合していた。賀来さんがやや遅刻して、その間にそれぞれに料理を持ち寄っているので、ブルーシートの上はかなり豪勢になった。
中でもアリスの作ったオードブルがすごかった。
「早起きしたんじゃないの?」
隣に座っているアリスにそうこっそりと質問したけれど、アリスは平然と「昨日のうちに仕込んだので、それほどでもありません」とすました顔で答えた。表情には疲れがないから、大丈夫なんだろうけど。
今日は俗典舎は休みである。
やっとやってきた賀来さんの手には大きな紙袋が二つあり、「こいつで楽しく酔おうじゃないか」とそっと袋を置いた。
取り出されたのはワインのようだけど、僕には銘柄は少しもわからない。
「高かったんじゃないですか? 賀来さん」
ボトルを眺めながらミストさんがそう言っても、大したもんじゃない、平凡なワインだ、と賀来さんは応じている。その手にはもう一本のボトルがあり、万能ナイフを取り出したかと思うと、あっという間に栓を抜いてしまった。
雰囲気が出ないじゃないか、とブツブツ言いながら、エレナ以外の紙コップにワインを注ぎ、「ちょっとだけだぞ」とほんの少しだけ、エレナの紙コップにもワインを入れた。
「ありがとうございます、賀来さん」
素直に礼を言うエレナから顔を背けた賀来さんが、ちょっと味が変わったジュースだよ、と笑って言っていた。
アリスの音頭で乾杯し、こうしてお花見が始まった。
ここに集まっている面々が話す内容といえば、本の話しかない。しかもなぜか僕が頼られるので、僕は、エンタメ小説の話をした後にライトノベルの話をして、その次には海外SF、海外ミステリ、国内SF、漫画と次々と記憶を辿って話をしていた。
これじゃあ、頭がパンクしそうだ、と思った時、急に隣にいるアリスが僕の服の袖を引っ張った。その時はまさに、酔っ払っているとしか思えないテンションのエレナからのライトノベルの話題に、区切りがついたところだった。
「十束さん」
アリスが指差す方を見ると、公園のベンチに座っている女の子がいる。
僕が見間違えるわけもない。
「行ってください」
そう促されて、僕はそっと立ち上がり、小走りにブルーシートを離れた。
(続く)
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