9-3 同じ気持ち
◆
カウンターに戻ると、アリスが紅茶を新しくしてくれた。
「なんか、早いね、一年って」
結局、何も本を持っていない僕の言葉に、お年寄りみたいなことを言わないでください、とアリスは呆れている声で言った。
「早くなんてないですよ。いろいろあったじゃないですか」
「そう、いろいろあったね。本当に‥‥」
僕はカップを手にとって、温かい紅茶を一口だけ飲んだ。
おやつはシフォンケーキで、ニンジンが入っているようだ。
「これからもよろしくお願いしますね、十束さん」
脈絡のないことを言われて、顔を上げると、アリスは控えめな笑みを浮かべている。
「えっと、何をよろしくすればいいの?」
「またこのお店に、来てください」
「ふーん、それは、経済的に支えてほしい、ってこと?」
「いえいえ!」
ぶんぶんとアリスは両手を振った。
「とんでもないです。十束さんと話していると、みんな楽しそうなのに、気づいてないんですか? ミストさんも、エレナちゃんも、賀来さんも、青柳さんも、遠藤さんも、他の人もそうでしょう?」
「うーん、どうかなぁ」
自覚がまったくないので、答えようがない。
「あの賀来さんだって楽しそうなんですよ」
その言葉に思わずアリスを見返してしまうが、アリスは頷いている。
あの賀来さんが楽しそうって、あの人はどんな人が相手でも楽しそうだけど。
「だから、お店のことは気にせず、十束さんが来たい時に、遠慮なく、顔を出してください」
そのアリスの表情には、僕の笑顔を誘う何かがある。
僕は頷き返して、カバンの中から「泣き虫しょったんの奇跡」の文庫本を取り出した。この一冊は俗典舎の本棚にはないのだ。
文庫本をアリスに差し出してみた。
彼女は文庫本を手に取り、まず裏表紙のあらすじを確認した。それからアリスは真面目な顔で書き出しを読み始めた。僕は黙って紅茶を飲み、シフォンケーキを口に運んだ。
「実はこの本、気にはなっていたんです」
そんな風にアリスは話し始め、話は自然な流れで今までに彼女が手をつけかねている小説の話になった。僕が同意したのは、莫言の「白檀の刑」だった。
それよりも、アリスが田中芳樹の「銀河英雄伝説」を読んでいない、と言い出して、危うく僕は席から立ち上がりそうになった。それをきっかけに僕が「銀河英雄伝説」の魅力について説明し、アリスは真面目な顔で聞いていた。
話し終わって顔を上げると、アリスはニコニコとしている。
だいぶ時間が過ぎている、と思って壁の時計を見ると、すでに十八時半になっている。
「ごめん、喋りすぎた」
「いいですよ。もうお客さんも来ませんし」
僕は紅茶を飲み干して、シフォンケーキの残りも口に入れて、モゴモゴしながら上着を着込んだ。
そこでふと思い立ち、レジスターのところに立っているアリスを見る。どうにかシフォンケーキを飲み込んだ。
「あの、アリスさん、これから本棚を整理するよね」
「ええ、そうしてから、帰ります」
「その様子を見ていていい?」
アリスが困った顔になったので、間違えたかな、と気付いた。
前言を撤回しようとしたけど、それより先にアリスが答えた。
「良いですよ。一応、先にお会計をしてください」
僕は五百円を手渡して、アリスはそれをレジスターに入れて、一度、奥へ下がっていった。僕はカウンターの椅子に座って彼女を待った。
私服に着替えたアリスが出てきて、棚の前に立つのを、僕はじっと見ていた。
アリスはゆっくりと本棚を確認し、時々、本を入れ替える。場合によっては本が入らずに、五、六冊をまとめて取り出し、場所を変えたりもしていた。
そんな様子を飽きずに眺めて、やがてアリスがこちらを振り返った。
「終わりましたけど」
「ああ。ありがとう。面白かった」
何が面白いんですか? とアリスはやっぱり困った顔になった。
アリスが店の明かりを消し、ドアに鍵をかけるところまで僕は観察していた。看板は僕が店内に移動させた。
二人でエレベータに乗った時、アリスがこちらを見上げた。
「実は、ニコルちゃんが、羨ましかったんです」
何の話かと彼女の方を見ると、今までの朗らかさが嘘のように、悲しげな顔がそこにあった。
「私、十束さんのこと、その、とてもいい人だと思っていて」
またこれか。
僕は自分に襲いかかる静かで、そして残酷な試練を前にして、今度は間違えないようにしよう、と思う一方で、自分が結局は誤ることをどこかで知ってもいた。
そんな僕の方を見上げて、アリスが言う。
「ニコルちゃんの気持ち、よくわかるんです。私と同じことを、考えていたはずだから。そしてそれを、行動に移したから」
うん、と消え入りそうな声で答えて頷くのが、僕の限界だった。
もうアリスは何も言わず、エレベータの中はそろそろ必要なくなる暖房で、やや汗ばむほどの温度だ。
エレベータに乗ってからのほんの数十秒が、とても長い。
停止して、ドアが開く。
「私の気持ちなんて、十束さんは知っても仕方ないかもしれませんけど」
エレベータから降りずに、アリスがもう一度、こちらを見た。
「でも私の気持ちも、覚えておいてください」
「わかった」
やっと言葉が出た。アリスは頷いて、エレベータを降りる。少し後に僕が続いた。
外へ出て、アリスは「また、お店で会いましょう」と、いつもの笑顔に戻って僕に手を振った。僕は軽く手を掲げて、それに応じる。
アリスは頭を下げて、小走りに離れていった。
いろいろなことがあるのが人生だとしても、この一年は、僕には激動が過ぎるというものだ。
小さな一軒の喫茶店が、こんなに人生を変えるなんて。
僕はアリスの背中が見えなくなるまでそこにいて、やっと駅へ向かって歩き出した。
顔が熱くて、無意識に手で扇いだりしながら。
(続く)
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