9-2 残されている可能性

     ◆


 二月も終わり、三月になる。

 もうマフラーは用済みになり、コートも重たく感じ始める。

 僕はホワイトデーをどうするべきか、賀来さんに相談したけど、彼は平然と「それぞれで何かするべきじゃないの?」などと言っていた。

 この年齢不詳の男性の経済力はよくわからないけど、少なくとも一介の男子大学生とは水準が違うはずだ。

 これは恥をかくのも覚悟しなくちゃいけないかな、と思って、結局、賀来さんを抱き込むのは諦めた。

 知識を総動員してネット検索をかけておいしい焼き菓子屋さんのパウンドケーキにした。これならウエイトレスの全員に行き渡るだろう。

 予約をして、受け取り、ホワイトデーの当日に僕は俗典舎に入った。

「やっぱり義理堅いよな」

 そんな青柳の声に出迎えられて、鼻白む僕の視界には、顔見知りの男性客がすでに六人いる。青柳と賀来さんがカウンターの席に座っていて、他の四人は二人ずつでテーブルにいる。

「出遅れたようだね、十束くん」

 ニヤニヤ笑う賀来さんに、僕は顔をしかめてみせる。定員オーバーで、僕は出直すしかないらしい。それでもと中に入り、カウンターにいるミストさんに持っていた紙袋を手渡した。

「みなさんで食べてください」

「あら、気が利くこと」

 ミストさんがいつもの色気のある笑みを見せて、丁寧に袋を受け取った。

「今はちょっとお店に入れてあげられないけど、あとでまたいらしてくださいね」

 そうします、と僕はドアを開けて、男性六人の忍笑いを背に、がっくりと外へ出た。

 秋葉原は今日は晴天だ。小春日和、というには少し季節が春に近すぎるだろうか。やることもないので、書泉ブックタワーを久しぶりに冷やかし、ブックオフへ行き、そこから今度はヨドバシカメラの有隣堂へ。

 新品の本を扱う店の間に古本屋を挟むとは、トリッキーすぎるな。

 有隣堂で、前から気になっていた瀬川晶司の「泣き虫しょったんの奇跡」を買った。なんとなく、手をつけていなかった本だ。

 こうなるとどこかで本を読みたくなるのが人情で、一度、地上へ降りて、駅へ戻り、タリーズを見て、何かが吹き上がるように記憶を圧倒した。

 アリスとエレナと、ここで話をした。

 何度か、ニコルと来たこともある。

 青柳とも、遠藤さんとも来た。賀来さんとは付き合いがないけど。

 不思議なことに、僕の中の秋葉原の光景には、いろいろな顔が伴っている。どこへ行っても、誰かしらの匂いが漂う。

 それが悪いことだとは思えない。東京が、というと言い過ぎだけど、秋葉原は、僕が確かに生きている街になった、ということだと思う。大学進学で移り住んだ、あのワンルームのアパートがある街よりも、秋葉原は僕の中で重要な意味を与えられたのだ。今の時点では。

 タリーズの前を通り過ぎ、大通りをぶらぶらと歩いて、結局はマクドナルドに入った。一階の通りに面した席で、青柳と食事をしたことがある。今回も偶然にもそこの席に腰を下ろした。

 ポテトの油やハンバーガーのソースで本が汚れるのが嫌なので、さっさと食べて、あとはコーラを飲みながら、念入りに手を拭ってから本をめくった。

 人の喧騒が今はどこか、心地いい。

 僕は何者でもない、ただ一人の人間になっている。

 孤独を連想させない周囲の無関心さは清々しいものがある。

 誰も僕のことを覚えていないだろう。あとで誰かに聞かれても、「窓際の席の男? 誰、それ? いた? そんな人」というような答えしか得られないはずだ。

 まだ秋葉原は僕が色を塗った場所と、無色のままのところがあるとも言える。

 まだ可能性があり、その可能性は僕に新鮮さを与えてくれる。

 まるで新しい本を読むように。

 客の誰かが不意に声を上げ、僕は顔を上げていた。もちろん、その声の持ち主の女性は僕の知らない人だし、声を上げたのは彼氏と戯れているからのようだ。

 時計を見て、そろそろ俗典舎に戻ることにした。十七時を回っている。あの面々が嫌がらせをしたり、もしくは別の客がやってきていなければ、少しは入れるはずだ。

 お盆とその上のゴミを片付けて、僕はマクドナルドを出ると、通りから逸れていき、人気はなくなり、そうして目立たない雑居ビルにたどり着いた。

 エレベータで最上階へ。短い通路を進んで、俗典舎の看板の横を抜ける。

 賑やかな声が聞こえそうな予測をしてドアを開けたのに、店の中はしんとしていた。

 驚いて立ちすくむ僕の前に、アリスがやってくる。

「いらっしゃいませ」

 ああ、とか、うん、とか言いながら、やっぱり無人の店内の見回して、それからカウンターの席に座った。賀来さんまでいないとは、これはこれで、何かの企みがあるのだろうか。

「他の人は?」

「十束さんに悪さをするようなので、帰ってもらいました」

 ……本当、か、な?

 待っててくださいね、と一度、奥へ下がったアリスが、ティーポッドを持って戻ってくる。カップに注がれるのはストレートティーで、僕は礼を言って、一口、すすった。

「あの、十束さん、パウンドケーキ、ありがとうございます。あそこのお店、一度、食べてみたかったんです」

「なら良かった。みんなで食べて。何があっても男の客にはあげないように」

 くすくすと笑って、そうします、とアリスが応じる。そして、おやつを出しますね、とまたアリスが奥へ消えた。

 店内が静かになり、僕がカップを置く音の響きが大きく聞こえた。

 席を立って、本棚の前に立つ。

 しばらくそこに立って、僕は背後でアリスがお皿を置く音を聞きながら、まだ本棚の前を離れなかった。



(続く)

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