第9話 ヒギンズと瀬川晶司
9-1 バレンタイン
◆
ニコルと会うことはなくなった。
連絡も来なくなったので、これで区切りなんだろうと思うしかない。ただし、俗典舎に通わないという決定的な決断を、僕は先送りにした。
いずれは傷も痛まなくなる、とは今はとても思えないけれど、今のところは俗典舎のそこここにあるニコルの名残を惜しむしかない。
その日は二月の半ばで、バレンタインデーの直前だった。
店に入った途端、チョコレートの匂いがして、何事かと思っていると、ニマニマと笑いながらいつもの席にいる賀来さんが手を振った。「いらっしゃいませ」とエレナが笑顔で迎えてくれるのに、頷き返して、カウンター席へ向かう。
隣の席では、賀来さんが僕を見守っている。こちらから話しかけようか。
「嬉しそうですね」
「こいつが逸品でね」
そう言って賀来さんが手元のマグカップを示す。ティーカップじゃないのは一年を通すと珍しいけど、アリスの好みなのか、チャイなんかはマグカップで供される。
何があるんだろう、と覗き込むと、焦げ茶色の液体がそこにある。それで匂いの正体もわかった。
「ホットチョコレートですか。珍しいですね」
「バレンタインとその前後でだけ出てくるんだ。美味いぞ」
エレナがやってきて、マグカップを僕の前に置く。おやつは出てこない。よく見ると、賀来さんの手元にも皿がない。彼はいつもおやつをお代わりするから、そもそも皿がないことがないのだけど、おやつも特別なんだろうか。
「少々お待ちくださいね」
エレナがそう言うので、僕は席を立って本棚の前に行った。
バレンタイデーか。まったく縁がないので、すっかり忘れていた。チョコレートが出てくる作品って、あったかな。
特に意味もなく視線を巡らせると、池波正太郎のコーナーがある。「剣客商売」、「鬼平犯科帳」、「真田太平記」が並んでいる横に、「男の作法」なんかもある。しかしどれもバレンタイン向きではない。
結局、何も思い出せずに、ジャック・ヒギンズの「鷲は舞い降りた」を選んだ。なんか、バレンタインみたいな恋人云々とはまったく無縁かもしれない。こういうところで僕の身にも男女の間のあれこれが縁遠いのだろうか。
いやいや、それでも「鷲は舞い降りた」にはちょっと恋愛の要素があったよ。イギリスに潜入した工作員が恋をするんだ。あれ? それって「鷲は舞い降りた」じゃなくて、「鷲は飛び立った」のほうかな。
どうでもいいか、と割り切って席について、僕は「鷲は舞い降りた」を開いた。
「お待ちどう様」
アリスの声に顔を上げると、目の前に皿が置かれる。
なにかと思うと、チョコレートケーキだった。
「手作りなの?」
「もちろん。このお店のおやつは、みんな自分で作っていますから」
すごいなぁ、と思わず声に出すと、アリスは嬉しそうな顔になり、ごゆっくり、と調理室へ入っていった。
それから賀来さんとあれやこれやと言いながら、チョコレートケーキを平らげ、僕はまた読書へ戻った。賀来さんは意地汚く、チョコレートケーキをもう一切れ欲しいと訴えていたけど、アリスはさりげなくそれをかわして、もう一切れは出さなかった。
小説の方では、シュタイナー中佐が部下と共に懲罰任務から解放され、その代わりにイギリスに落下傘降下し、首相のチャーチルを誘拐する作戦を聞かされている。
ピアノの音が急にして、びっくりして顔を上げると、アリスがピアノの前に立っている。まだ早すぎるだろうと時計を見ると、やっぱり時刻はまだ十六時過ぎだ。
早く店を閉めるのかな、と思って横を見ると、賀来さんは椅子に座ったままでピアノの方を見ている。テーブルの方にいる四人の客も、ピアノを向いていた。
僕も自然とそれに倣う。
アリスが何かを確かめるようにクラシックらしい曲を弾いて、そしていきなり激しい曲を弾き始めた。
ロックをピアノアレンジにしていて、なにかと思うと、アイアンメイデンの「ナンバー・オブ・ザ・ビースト」だった。
怒涛の演奏の後、今度はAC/DCの「ハイ・ヴォルテージ」。この曲をピアノで弾く人なんて、いるのか? さすがに誰も歓声を上げないので、観客との掛け合いの部分がやや間伸びしている。
それからは急におとなしくなり、ビートルズのメドレー。
そこからは邦楽に移動して、Mr.Children、RADWIMPS、と続いていく。
曲は、米津玄師、あいみょん、その後にaikoの「アンドロメダ」で演奏は終わった。
誰からともなく拍手をして、アリスは深く一礼した。
そのアリスが奥へ戻ると、店の雰囲気は元に戻った。みんなが読書に戻って、まるで何事もなかったかのようだ。
エレナが近づいてきて、耳元で囁く。
「最近の邦楽をだいぶ質問されたので、少し偏向させておきました」
いたずらっ子の顔のエレナに、僕は苦笑いするしかない。
米津玄師なんて、アリスはほとんど聞かないんじゃないか。弾いた曲は「アイネクライネ」だった。その選曲がやや偏向しているのは、僕もエレナと同意見だ。でも「アイネクライネ」は名曲なのは間違いない。
読書を続けて、客が帰り始めたことで時間だと気付いた。顔を上げて、カウンターの向こうに今はいない女の子の気配がして、でもそれはただの気配に過ぎない。
賀来さんが立ち上がり、「やっぱりここのホットチョコレートは美味いな」とエレナに感想を口にしていた。僕も同じような感想を言うしかないのは、本当に絶品だからだ。
「またいらしてくださいね」
エレナがそう言って最後の客の僕を見送った。エレベータの前で賀来さんに追いついた。
「もうバレンタインとは、怖くもなるよ」
僕が何も言っていないのに、賀来さんが不意にそんなことを口にした。
「いつの間にか、季節が巡って、何かが確実に置き去りになるな」
どう答えることもできない僕と、いつもよりどこか寂しげな賀来さんの前で、一度のチャイムの後、ドアが開いた。
(続く)
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