8-5 すれ違い
◆
一月も終わろうかという日に雪が降って、東京でも数センチの積雪だった。
その翌日、よく晴れた日に僕はやっぱり秋葉原に向かったけど、思わぬところで遠藤さんと出会った。新宿駅で京王線から総武線に乗り換えようとした時、向かいから彼女が歩いてきたのだ。
「やあ、久しぶり」
そんなことを言う彼女に前に会った時は、俗典舎で、十二月の頭くらいだったはずだ。二ヶ月も会っていないのか。
「お久しぶりです。これからどちらへ?」
「絵画の個展。そっちは?」
「秋葉原ですね」
ああ、そう、と遠藤は笑みを見せる。
「あなたが行けば、少しは明るくなるでしょう」
思わぬ言葉に、答えあぐねているうちに、頑張って、と肩を叩いて遠藤さんはすれ違って行った。人が行き来する通路の端で、僕は彼女を見送った。
昼過ぎに俗典舎に着くと、ミストが出迎えてくれた。
「遠藤さんと会いましたよ、新宿で」
他に客がいないので、さりげなくそう言ってもミストに変化はない。
「あの人も顔が広いから。はい、今日はミルクティーです。おやつはアップルパイ」
小さな、しかし美しいアップルパイが乗った皿を差し出され、礼を言ってから、素早く席を立った。ミルクティーの甘い匂いを感じながら、僕は本棚から素早く一冊を引き抜いた。
「それは映画を見た?」
ミストがカウンターに戻った僕に声をかけてくる。
「見ましたね。でも原作の方が好きです」
「体当たりは本当に、すごい描写なのよねぇ」
僕の手にあるのはトム・クランシーの「レッド・オクトーバーを追え」だった。
椅子に腰を落ち着かせて読み始めると、どこかからかすかな音がする。雑居ビルの屋上で雪が溶けて、その水が流れていく音のようだ。地元では冬に、小学生の時などの学校の行き帰りに聞いた音だ。
少しずつ溶けて、ぽつ、ぽつと滴がしたたり、どこかで弾ける音。
意外にこれが落ち着く音で、好きだった。
十八時になって、アリスが出てきてピアノを弾き始めた。今日は雪のせいだろう、僕が以外にお客はいない。賀来さんでさえ、今日は来るのをやめたようだ。
アリスが何を弾き始めたかと思うと、大江千里の「Rain」だった。あれは冬の曲じゃないわけだけど、しかし今の気持ちにはしっくりするメロディだ。
もしここで、例えば広瀬香美の「ゲレンデが溶けるほど恋したい」なんかが流れてきたら、笑っていただろう。声に出して。
僕は席に座ったまま、アリスの背中を見ていた。
弾き終わった彼女が振り返り、頭を下げる。
「ご来店、ありがとうございました」
「うん、そう……」
急に言葉が口をついて出た。
「ここに来ないようにしようかと、思った時期もありました」
アリスがこちらを見ているし、ミストも僕の横顔を見ている。
「でも、来ることにします。忘れないように、します」
「苦しいなら」
そういったのはミストだった。
「無理しなくてもいいと思うわよ」
「無理なんて、しないですよ。無理じゃないんです」
それが無理だと思うけどねぇ、とミストは柔らかく微笑んで自然と調理室の方へ行ってしまった。アリスがこちらへやってきて、深く、頭を下げた。
「ありがとうございます。もし、もう来たくないと思ったら」
アリスが顔を上げて、でもその顔には笑顔がある。
今はわかる。それは強がりな笑顔だ。
「このお店のことも、私たちのことも、忘れてください」
「アリスさん、本棚にある本を忘れることができますか?」
え? とアリスが目を少し大きくする。
「だから、アリスさんが読んだ本だけのこの店の本棚で、アリスさんが内容を忘れてしまったタイトルがありますか?」
アリスが本棚の方を見てから、こちらに向き直る。
「私は本を忘れたことはないですけど、それは、十束さんがニコルちゃんを忘れないことと、同じですか? それはちょっと人と本を同列にして、ひどくないですか?」
「ひどいかもしれませんね。でも、僕の中には、ニコルさんという登場人物にスポットライトが当たった世界、いろいろな場面が、あるんですよ。その世界や場面がキラキラと瞬いて、眩しいんです。だから、彼女は今も僕の中の本棚の前に、立っているんです。その本棚が現実になったのが、この店の本棚なんです」
僕はじっと、本棚の方を見た。
ニコルはいない。もうここには来ない。
でもその本棚を見ると、彼女の姿が浮かび上がり、真っ黒い長い髪が揺れるのも見える。
いつまでも忘れられない、景色。
アリスが小さな声で、ありがとうございます、と言ってレジスターの方へ行く。僕はゆっくりとコートを着て、会計をして店を出た。
エレベータを降りた時に、全く想像していない光景があった。
雑居ビルの狭い廊下の先、そこのガラスのドアの向こうに、誰かが立ってる。
小柄な影。よく見た、知っている影だ。
ゆっくりと歩み寄って、ドアを開けると、誰がそこにいるのか、しっかりとわかった。
「こんばんは」
彼女はぎこちなく微笑みながら、そう言った。息が白く染まるのが、薄暗い明かりの中でも輪郭が際立って見えた。
「ニコル……」
そこにいるのは、間違いなくニコルだった。真っ白いコートを着ていて、赤いマフラーが首に巻かれている。
見間違いではない。ニコルが、目の前にいる。
駆け寄ることもできず、ゆっくりと歩み寄って彼女の前に立った。やや広い間合いを残して。
「大丈夫?」
自分で言っておきながら、何が大丈夫なのか、よくわからない。
そのせいだろう、きっと空疎な言葉に気づいただろうニコルは力なく笑った。
「大丈夫ですよ、私は。平気です。これから帰るんですか?」
「そう、そのつもりだけど、ニコルさんは?」
彼女は真面目な顔になり、こちらを見た。
「荷物を整理しにきました。もう、ここには来ないと思います」
何も言えない僕に、ニコルが頭を下げた。
「勝手なことばかりして、ごめんなさい。今まで、ありがとうございました」
これで、ニコルは僕の記憶の中、意識の中だけの存在になるんだな、と考えて、僕はそっと場所を譲った。すぐ横を歩いてすれ違ったニコルが雑居ビルに入る。
僕は彼女がドアを閉めたのを見て、もうそれ以上は見ていられずに、背中を向けて、歩き出した。
急に目元が熱くなり、強く、瞼を閉じる僕がいた。
(第8話 了)
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