8-4 自分を慰め、自分を傷つける行為
◆
この年の冬は夏の酷暑が嘘のように、冷え込む日が連続した。
雪こそ降らないけれど、僕はどこへ行くにも厚手の使い古した上着を着て、首にはマフラーを巻いた。
秋葉原へも行くようになったのは、大学の試験がすべて終わり、おおよそ問題なく単位が取れるとわかってからなので、一月の下旬である。大学はこれから四月までは長い休みになる。
久しぶりの雑居ビルのエレベーターに、なぜか胸が早鐘を打つ。
何をそんなに気にするんだろう。喫茶店に行くだけじゃないか。それも顔なじみの、まるで自分の家のような店に。
エレベータを降りて、目の前にある俗典舎の看板に少し足を止めた。
覚悟を決めてドアを開くと、暖房の暖かい空気が押し寄せてきた。
「いらっしゃいませ」
そこにいるのはエレナで、屈託のない笑みで僕を迎えてくた。その向こうでは、賀来さんがまるでグラスを掲げるように、ティーカップを持ち上げる。
カウンター席に座ると、賀来さんがすぐに最近に読んだ本の話を振ってくる。
「北方謙三の「水滸伝」ですね。まだ「楊令伝」までですけど」
「おいおい、あれは長いな。何冊だったかな」
「「水滸伝」が十九冊、「楊令伝」が十五冊、その後の「岳飛伝」が十七冊じゃないですか?」
指を折って感情をして、五十一冊ね、と呟く。
「塩野七生は知っているか?」
そう水を向けられれば、おおよその話の筋は見える。
「だいぶ読んだクチです。最初は「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」で入ったんですけど、面白くて、そのまま勢いで「ローマ人の物語」を読みました」
「四十三冊だぞ」
「四十三冊です。その上で「ローマ亡き後の地中海世界」四冊と「十字軍物語」四冊も読みました」
「やっぱりとんでもない男だよ、十束くんは」
そんな話をしている間に、そっとエレナがチャイとおやつの小さなパンケーキを置いてくれる。生クリームが載せられている。きれいな形状だった。
しばらく賀来さんと話してから、僕は本棚の方へ行った。
ミステリを探して、しばらくそこに立ち尽くした。
ニコルとは数え切れないほど、ミステリ小説の話をした。彼女がミステリが好きだったのだ。綾辻行人、森博嗣、北山猛邦、有栖川有栖、京極夏彦、そんなところだ。他にも海外ミステリの大御所をしっかり押さえていた。アガサ・クリスティー、エラリィ・クイーン、コナン・ドイル、ディクスン・カー、ロス・マクドナルド、なんてあたりだ。
そんな彼女に僕は自分の趣味の本を何度か勧めたものだ。
そのうちの一冊を、僕は手に取る。柳広司の「ジョーカーゲーム」だ。
席に戻って読み始める。この作品は短編形式で読みやすいし、キャラクターの個性も抜群だ。一番は、謎めいたスパイマスターの結城中佐。
読み進めているうちに、チャイを飲み終わり、エレナがカップごと交換してくれた。
人が何度か出入りをして、僕はその日を久しぶりに、閉店時間まで俗典舎で過ごした。
ピアノが鳴り始める。知らない曲だった。洋楽だろうか、と思いながら、賀来さんを見ると、コートを身にまといながら「スティービー・ワンダーを知らんのか」と言われた。
ああ、そうだ、この曲は「サー・デューク」だった。
僕も防寒対策をして、賀来さんに一歩遅れて会計をした。アリスはピアノを弾いているので、エレアが小銭を受け取る。
「あの、十束さん」
ピアノがゆっくりとアレンジした曲を弾いている中で、エレナが言う。
「十束さん、また来てくださいね。このまま、来なくなっちゃうなんて、私は嫌です。アリスさんも、ミストさんも、そう考えています。自分じゃ言いませんけど」
どう答えればいいのか、考えて、ただ黙って頷くしかなかった。
またこの店に迷惑をかけては、と思うと、足が遠のく。でも彼女たちは、僕を歓迎すると言っているのか。その相反する二つの思い、自分を引きとめようとする僕自身と、その僕をそっと導こうとしてくれる彼女たちの間で、僕はどちらも選べなかった。
店を出て、エレベータが上がってくるまで、扉の上の表示のランプを見上げていた。
ここにいるとき、急にニコルが飛び出してきて、僕に電話番号のメモを教えてくれたのは、ついこの前のことのように思える。でももう季節は秋を通り過ぎ、冬の真っ只中だ。
ニコルは今頃、何をしているんだろう?
高校に通って、部屋で勉強をして、友達と話をして、そして見えない誰かがそばにいないか、じっと、さりげなく、視線を配っているのか。
僕はため息をつき、ドアが開いたので、エレベータに乗り込んだ。
冬休みには特に予定は何もないので、自然と俗典舎に通うことはできる。
ニコルのことを過去に置き去りにして、今の俗典舎に。
ニコルのいない、俗典舎に。
ものすごい裏切り行為に思える。自分のことしか考えていないようじゃないか。
でももう、僕にはニコルにできることは、何もなかった。
今、乗っているエレベータが一階で止まって、扉が開いたとき、そこにニコルが立っていれば、僕は立っていられないほど安堵するだろう。
逆に、怒りに駆られた正体不明の男が、いっそナイフでも持ってそこに立っていれば、やっぱり安堵するんじゃないか。
誰も僕を裁かない。
誰も僕を否定しない。
こんなに、酷い男なのに。何もできない、弱い存在なのに。
高い音が一度、鳴った。ドアが開いていく。
そこは無人の通路があるだけで、冷気が吹き込んでくるのみだ。
結局、僕はまた、俗典舎に来るだろうと、この時には確信があった。
ニコルのことを思い出して、自分を慰め、同時に自分を傷つけるために。
そしてありもしない幻を見るために。
(続く)
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