8-2 涙の一粒も流せない

     ◆


 カウンターに並んで座って、アリスの言葉を待った。

「前にアヤメさんという方に、お店を手伝ってもらっていました」

 アリスが静かな口調で言葉を紡ぐ。

「開店前からお世話になっていて、最初からのメンバーでした。というより、最初は私が調理室を担当して、アヤメさんがフロアを担当していたんです。一年も経たずに、二人じゃ無理だという話になって、ミストさんが入ってきました」

 アリスはそっと自分の前のティーカップに指で触れ、そっと撫でた。

「お客さんが定着して、道楽としてギリギリだけど営業できるようになってきた時、夏でしたけど、アヤメさんが犯罪に巻き込まれて……、怪我で済んだんですけど、私はその、申し訳なくて……」

 重い何かを吐き出すように、アリスがため息をついた。

「でもアヤメさんは最後に、笑ってくれました。こういうこともあるよ、ちょっとした不運だよ、ってね。その後、彼女がこのお店に来たことはありません。秋葉原にもきっと、来ていませんね。たまに電話で話しますけど、地方で塾の講師をしているそうです」

 少し黙って、話が逸れましたね、とアリスが呟く。

「ニコルちゃんもきっと、新しい場所で、新しい自分を見つけると思います。それがきっと、人間っていうものだから。その一方で、絶対に癒えない傷を負う心を、人間は持っています」

 その言葉はニコルに限らず、僕とアリス自身にも言えるんだろう。

 みんながみんな、どこかで傷ついて、それでも前を向くのか。

 今の僕は、前を向けるだろうか。

 閉店準備を終えたエレナが、無言で調理室の方に消える。本当に二人きりになり、僕とアリスはどちらからともなく、口元にそれぞれの笑みを浮かべていた。

「ニコルちゃんには、できる限りの事をします。彼女はいい子ですし、明るく、まっすぐに生きていってほしいから」

「まるで人生の先生みたいだ」

「茶化さないでください。これでも強がっているんです」

 その言葉が、最後だった。

 アリスは俯き、沈黙し、静かに泣き始めた。

 なんか僕は、女の子を泣かせてばかりだ。僕自身は、一滴の涙も見せやしないのに。

 アリスになんて言葉をかければいい? 今、それを思いつけなかったら、僕の頭は飾りと同じだ。さあ、考えよう。たった今、ここで、言葉が必要なんだ。

 女の子を励ます言葉が。

 結局、そんな言葉は出なかった。ただ僕はアリスの横に座って、遠くはないけど、近すぎるわけでもない距離の場所で、じっとしていた。

 すんすんとアリスが泣いている。胸を締め付けられる光景だった。

 いったい、誰が悪いんだろう? 誰も悪くないのに、涙を流す人がいるなんて、あっていいのだろうか。

「ごめんなさい」

 そう言って、アリスは顔を上げ、思い切り息を吸って、息を吐いた。

「引き止めて申し訳ありません、十束さん。また気が向いたら、お店に来てください」

「そうするよ」

 アリスは跳ねるように席を立つと、調理室の方へ足早に消えた。

 会計をしなくちゃな、と思って、でもアリスは戻ってこないし、エレナもやってこない。仕方なく古風なレジスターの横に五百円玉を置いておいた。

 エレベータで一階に降りて、外へ踏み出すと途端に寒さが僕を包んだ。昼間のぬるさは、ぬぐい去られて、キンと冷えている空気が僕を囲んでいる。

 珍しいことに、真っ黒い夜空からチラホラと白い何かが落ちてくるのが見えた。

 東京で雪が降るなんて、珍しいだろう。

 しばらくその場に立ち尽くして、僕は雪が舞い降り、そしてどこかへ消えていく、その中心で夜空を見上げていた。

 もしかしたらこの光景を、ニコルと見ることができたかもしれない。

 でもあの子は今、こんな美しい光景を、心の底から美しいとは思えないだろうと、僕は想像した。

 闇の中から伸びてくる手に怯えて、きっと、雪の断片なんて見ている余地はない。

 人間が人間を傷つけることの、何と罪深いことか。

 一人でしばらくそこにいて、僕はそっと歩き出した。

 秋葉原はクリスマスイブということもあってか、普段よりは人の数が多かった。カップルも散見される。大半は一人のようだけど。

 一人で生きていければ、傷つかないなんて、今の僕は考えてもいなかった。

 以前は、一人でいようと誰かといようと、何も変わらなかった。本があり、その本の中に別世界があり、親しい仮想の友人たちで溢れていた。

 でも今は、ニコルがそばにいることを知ってしまった今では、一人でいることの孤独が、いやに意識された。

 今の僕は本当に一人なのだ。

 また俗典舎に行けるだろうか? そこに見る、幻のニコルに、僕は何を感じるのだろう。

 駅へ向かって歩きながら、不意に背後から誰かが走ってくる気がした。勢いよく振り返ると、一人の男が女の子を引きずるように走っている。

 それは僕とニコルで、つまり、幻だ。

 こんな街角でさえ、僕はニコルを思い出してしまうらしい。まるで何かの病気だ。

 何度か首を振って、僕はまた歩き始めた。

 雪はいつの間にか止んで、霧雨が降っている。髪の毛がしっとりと濡れ、少しだけ肩が重い。

 秋葉原駅の改札が見えてくる。照明が眩しい。まるでそこだけは何かのステージのようだ。人が大勢行き来するだけの、意味のない演劇。十人十様の人生の、ほんの一瞬の場面を描き出す舞台か。

 僕はSuicaで改札を抜け、いつでも真新しく感じる構内を、足早に歩いた。



(続く)

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