第8話 サン=テグジュペリと柳広司とクランシー
8-1 正しい行い
◆
十二月二十四日は、ニコルと俗典舎で会う予定だったのが、あんなことになって、もう当のニコルはそこにはいない。
それでも秋葉原へ行こうと思ったのは、たぶん感傷のせいだろう。
電車に揺られながら、ぼんやりと通り過ぎていく街並みを眺めた。僕は京王線で三十分の移動を、もう数え切れないほど過ごしていて、そこに見える景色も熟知している。
でもそんな町々に、僕は降り立ったことはない。電車は僕のアパートの最寄り駅と、新宿を一直線に結ぶだけだ。
総武線に乗り換え、秋葉原で下車する。秋葉原はまるでコンピュータの排熱がこもっているように、新宿駅の寒さとは別種の寒さ、不自然なぬるさがある。
クリスマスイブで何かを差し入れするべきかもしれないけど、やめてしまった。
何をしても、アリスたちの迷惑になるかもしれない。
雑居ビルの前に立って、もう警官はいないとわかった。立ち尽くして、周囲をぐるりと見回す。あの暴漢はどこに潜んでいたんだろう。どれだけ確認しても、昼間の光の下では隠れる場所なんてない。
それでも潜めたのは、執念のなせる技か。
ため息をついて、僕は雑居ビルに入り、そのままエレベータで最上階へ上がった。
俗典舎に入ると、エレナが立っていて、僕を見るとかろうじてという感じの笑みで「いらっしゃいませ」と言う。空いているカウンター席に座ってから、アリスさんが話があるそうです、とエレナが囁いた。
「今すぐに?」
「少し待ってくださいね」
エレナが足早に調理室へ向かい、僕は本を選ぶわけでもなく、カウンターの席に座っていた。すぐ隣の席では、僕以外の唯一の客である賀来さんが平然と本を読んでいる。
すぐに調理室の方からアリスがやってきた。
「ニコルちゃんが仕事を辞めたこと、聞いていますよね」
「うん、本人から聞いた」
「あまり深く考えないでください。無理をしないで」
無理か。
僕が何を無理しているのか、よくわからなかった。
何かを抑圧して、僕はここにいるんだろうか。ニコルの笑顔が見えないことを、そこからくる悲しみや怒りを、僕は必死に抑えつけているだろうか。
そんなことはない気がする。
少なくとも悲しみに関しては、こうして俗典舎へ足を運ぶことで、どういう形かはわからないけど、決着をつけようとしている自分がいる。
成功するか、失敗するかは、わからないのだけど。
アリスが「またお話をしましょう」と言って調理室に戻り、控えていたエレナが紅茶を用意して、おやつも出してくれる。おやつはガレットブルトンヌだ。
しばらく本を手に取ることなく、紅茶をゆっくりと飲んだ。
「なんでも」
急に隣で賀来さんが声を発する。僕はそちらを見て、賀来さんが本ではなく、自分の手元の紅茶を眺めているのに気づいた。
「犯罪者から、女の子を守ったとか」
「たまたまですよ」
「正しいことをしたんだ、少しは胸を張れ」
僕は俯いて、背中を丸めていた。その様子は、賀来さんじゃなくても叱咤したくなる雰囲気だっただろう。でも僕は顔を上げる力を出せなかった。
「私も昔、似たようなことがあったが、私には何もできなかったよ」
唐突なその言葉を遅れて飲み込んで、賀来さんの横後を見るけど、賀来さんはいつになく感情のない表情で、さっきと同じように紅茶の澄んだ表面を見ている。
「私と仲の良かったウエイトレスが襲われてね、でも私はその場には居合わせなかった。家に帰っていて、のんびりと本を読んでいたよ。そして何も知らないままに、食事をして、風呂に入り、ベッドで寝た。面白おかしい夢さえ見た。翌朝になって、携帯電話に留守電が入っていて、おおよそを知ったんだ」
どう答えることもできない僕の横で、賀来さんは全く取り乱していない。
「その女性は仕事を辞めて、それ以来、私は彼女と会っていない。きっとこれからも会うことはないだろう。自分が乱暴された場所に、好んで戻ってくる人間なんて、いないだろうね」
やっとカップを持ち上げ、賀来さんがそれを飲んだ。
「正しいことだけをやったはずでも、必ずどこかに落ち度がある。それがわかっただろう? 十束くん」
ちらっと賀来さんがこちらを見て、笑ったようだった。
この時の僕の頭の中ではいろいろな言葉が渦巻いて、いったい、何が正しかったか、どうするべきだったか、考えることが止まらなくなってた。
すべてを順序立てて、筋道を立てて、論理的に綻びのない一本の糸のように全てを収束させたいのに、とてもそんなことはできなかった。
「アリスも言っていたが、気に病むな」
僕がいけない、僕がいけなかったんだす。
そう口に出したかった。でもみっともなくて、それに感情があまりに激しすぎて、言葉にはできなかった。喉がこわばって、顎に力が入り、言葉を口に出せないほど、僕は衝動に支配されていた。
「適当な本を読んで落ち着けよ、十束くん。何か、選んでこようか?」
「……ええ、その、お願いします」
席を立った賀来さんを目で追うこともできず、かといってカウンターの中にいるエレナを見ることもできず、冷えていくカップの中の紅茶を見ていた。
戻ってきた賀来さんが、一冊の本を差し出してくる。
サン=テグジュペリの「夜間飛行」だった。
「今のきみの様子なら、これくらいがいいだろう。短いし、いい話だ」
「ええ、それは」
かなり前に読んだことを思い出した。ストーリーもおおよそは覚えている。
深呼吸して姿勢を整え、僕は椅子に座り直し、そっと本を開いた。
真っ暗な闇の中、自分の感覚だけを頼りに飛行機を操る様子は、今の僕の頼りない様子、何にも掴まることができず、進むべき道も分からず、あるいは自分の心を不安に支配されいる様子も、何もかもが、その物語と結びついた。
気づくと十八時を回っていて、賀来さんが席を立つ音でそれに気づいた。
僕は賀来さんを見送り、入れ替わりにアリスがやってきた。エレナは閉店準備をしている。
フロアには、僕とアリスだけだ。
何かを躊躇って、アリスは一度目を閉じ、ゆっくりと瞼を開いて僕を見た。
瞳には、何かが揺れている。
(続く)
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