7-5 震える声

     ◆


 俗典舎に警官が来て、事情を聞かれて、アリスにした説明をもう一度した。二度目だからか、少しはマシに、順を追って、細部を説明できた気がする。

 アリスはニコルの情報を警察に伝え、警察も何かを調べるようだった。

 そんな具合で、二十二時を過ぎるまで、僕は俗典舎にいて、それでもまだ帰れずにアリスが出してくれた紅茶のカップを前に、まだショックに打たれていた。

 思っているよりも、僕は衝撃を受けているようだ。

「意外にこういうことはあるものですよ」

 寂しげにそういうアリスは、僕の隣の席に腰掛けている。彼女の手にもカップがあり、すぐそばにはティーポッドがある。

「うちの店では二回目ですね」

「二回目?」

「一回目は、アヤメさんという方が被害に遭われて、お店を辞めることになりました。ニコルさんももう、ここでは働けないと思います」

 そうですか、と力なく答えるしかない。

 ニコルがどうして悪漢に狙われたのかは、まだ何もわからない。僕のせいかもしれないし、全く関係ないかもしれない。何かの妄想に支配された男が襲ったのか、それとももっと別の理由、筋道立った何かがあるのか。

 そんなことは知りたくもないけど、ただ、ニコルが暴力を向けられた、という点で、放っておけなかった。

 紅茶が飲まれることなく、冷めていく。空調で部屋は暖かいはずなのに、今はどうしても寒気がした。

「十束さんが自分を責める必要はありません」

「でも、そういうわけには……」

「私は今、自分を責めていますけど、アヤメさんが残した言葉も、繰り返しています」

 アリスを見ると、表情には力がないながらも、どうにか作られた笑みがあった。

「その言葉は?」

「その言葉は、あなたが作ったこの場所で救われた人がいることを忘れないで、という言葉です。最後にアヤメさんはそう言って、笑っていました」

 救われた人。

 それは僕のことでもあるんだろうか。

 それとも、ニコルのことも含まれるのか。

 ウエイトレスと客という関係でも、意味を持つ言葉だ。

 この俗典舎という空間を作っているのは、アリスで、ミストで、エレナで、そしてニコルで、さらには客たちもそうだ。賀来さんや僕も、この店を作っている。

 ウエイトレスと客の区別なくみんながどこかで、この場所に助けられているかもしれない。

 たとえそれが苦痛を呼び寄せても、救いだけは、その暖かさは、光は、消えないかもしれない。

「ニコルちゃんに何か、伝えましょうか?」

 アリスからそう言われて、今のニコルは僕とも直接は話しづらいと彼女が気を回してくれているのに、僕は心の中で感謝した。

 少し考えて、言葉を組み立てた。でも口をついて出た言葉は、全くシンプルで、単刀直入なものだ。

「十束は謝っていたと、伝えてください。申し訳なかった、って」

「それでいいんですか?」

「他に言葉は、ないですよ」

 そうですか、とアリスが頷き、スマートフォンを取り出し、誰かと話し始めた。どうやらニコルと直接に話しているらしい。短いやり取りの中で、確かにアリスはニコルに僕の伝言を伝えてくれた。

 通話が終わり、アリスがこちらを見る。

「助けてくれたこと、ありがとうございました、と言っていましたよ」

 その一言は、ズシンと僕の胸の奥に沈み込んだ。

 僕はニコルを助けた。

 でももしかしたら、彼女を危険にさらしたのは、僕かも知れないのだ。

 僕がここに来なければ、ニコルはあんな目に合わなかったのではないか……。

 その想像は、ニコルが僕に向けて、逆に僕がニコルに向けた、ある種の救いを冒涜する想像なんだろうか……。

「そろそろ帰りましょうか」

 アリスがそう言って、席を立った。僕はのろのろとそれに従った。アリスは「カップとポットは明日、洗いましょうか」などと言っていたけど、きっと僕を現実に引き戻そうとしてくれたんだろう。

 店を出ると、赤色灯を光らせたパトカーがいて、そこにいる警官とアリスが何かを話していた。僕はぼんやりとしていて、何か言われた気がするけど、すっかり忘れてしまった。

 気づくと電車に揺られて、次に気づくと夜道を歩いていた。そして次には、アパートのドアの前に立っていた。

 ベッドに倒れこみ、目を瞑ると急に肩が痛んだ。暴漢にぶつかっていった方の肩だ。

 放っておくことにして、勢いをつけて起き上がるとお風呂に向かい、熱いお湯を張ってそこにゆっくりと浸かった。

 出てくるともう日付が変わっていて、スマートフォンを見ても、ニコルからは何の履歴も残っていなかった。

 翌日になっても僕の気持ちは晴れなかった。それでも時間は流れ、大学ではレポートの内容が発表され、僕はパソコンに向かって必死に文章を組み立てた。

 ニコルから連絡があったのはクリスマスの数日前で、あの夜以来、彼女からは連絡はなかったし、僕も忙しくて俗典舎には行ってなかった。

 電話の着信を受けてスマートフォンが震え始め、手に取るとニコルからだと表示されている。

 緊張して、何度かメロディがくり返されてから、電話を受けた。

「もしもし?」

「こんばんは、十束さん」

 ニコルの声は前と少し違っている気がした。僕はその声に耳をすませた。

「いろいろ考えたんですけど、その……」

 ニコルは言い淀んだけど、呼吸を繰り返し、そしてはっきりと言った。

「私、お店を辞めることにしました」

 僕は言葉を見つけ出そうとして、失敗して、平凡なことしか言えなかった。

「それしかないと、思っていたよ。危ないし……、その、安全第一だから」

 電話の向こうでニコルが泣き出したのが、その隠しようのない震える息の音ではっきり聞こえた。

 でも僕はもう何も言えずに、黙って、スマートフォンを耳に押し当てた。

 押し殺した声だけが、耳から流れ込んできた。



(第7話 了)

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