7-4 悪意の時

     ◆


 まさかぼんやり見ているわけにはいかない。

 僕は全力で駆け出して、どうすることもできずに肩から男に衝突した。

 その男は、俗典舎の客で、僕よりだいぶ先に店を出た男だった。ニコルを知っていて、待ち伏せしたのだろう。

 そんなことを考えたのは、男が転倒し、引きずられるようにニコルも倒れてからだった。

 僕はニコルの手を掴んで立たせようとするけど、そのニコルの腕を暴漢も掴んでいる。男の手を僕が無理やりに引き剝がし、ほとんど抱きしめるようにしてニコルを抱え上げ、駆け出した。

 暴漢が何かを叫んで追いかけてくる。ニコルも必死に走るけど、ほとんど僕に引きずられている。まるで僕が襲われて、僕が恐怖にとりつかれているようだった。

 何度か角を曲がり、そうして大通りに出た。何事かと、通行人がこちらを見るのがわかるけど、構わずにそこへ突っ込み、掻き分け、衝突し、罵声を浴びせられながら、走り続けた。

「十束さん! もういいです! いいですから!」

 ニコルが声を上げて、やっと僕は足を止めた。

 どこをどう走ったのか、万世橋の上だった。ゲームセンターの電飾が夜の闇の中ではっきりと主張して見えた。

 僕は息を切らしていて、ニコルは座り込んでいる。それなのに僕は彼女の手首を握っているままで、なかなかその手から力を抜くのが難しかった。それでもどうかに、放した。

「大丈夫? ニコルさん」

「ええ、その」

 乱れる息の中でそれだけ言うと、急に声が震えた。

「……怖かった」

 当たり前だ。僕だって怖かった。

「どこかで休んで行く?」

 いつかも誰かにこんなことを言ったけど、今は誤解されることもないだろう。

「お茶でも飲んで、落ち着こう」

 そう続ける僕の前で、しゃがみ込んだままのニコルがヒックという音を喉から漏らし、泣き始めた。何度も何度もしゃくりあげ、両手で目元を拭い、顔を覆う。

 薄ぼんやりとした光の中でも彼女の手首に、僕が握りしめた場所がアザになっているのが見えた。

 それがまるで僕の罪を示しているようで、胸が締め付けられた。

 僕のせいで、ニコルは傷ついたんじゃないだろうか。

 僕は肩膝を地面について、そっとニコルの背中をさすった。その僕に勢いよくニコルが飛び込んできて、抱きしめる形になった。

 今は、必要なことだろう。

 今だけは、必要なことだ。

 しばらく僕は彼女を抱きしめていた。彼女が泣き止むまでの時間がいやに長く感じて、不思議だった。通行人が不思議そうにこちらを見たり、不審げな視線を向けてきたりするけど、僕たちは橋の上から動かなかった。

 どれくらいが過ぎたか、ニコルが身を引いて、立ち上がろうとして、ぐらっと姿勢を崩す。立ち上がった僕がそれを受け止めた。

「ちょっと、足が痛くて」

「タクシーで帰るといい」

 僕は財布を取り出して、五千円札があったので、それを彼女にもたせた。

「送って行ったほうがいい?」

 その言葉に、ニコルの顔が歪むのが、やっぱり薄暗いのに変に鮮明に見えた。

「家を知られたくありません」

 僕に、ではないだろう。誰にも知られたくないと思っている。

 当たり前じゃないか。働いているところで、男に乱暴をされそうになっているわけだ。もしどこかで住んでいるところが知られれば、何が起こるかわからない。

「いいよ、気にしないで。タクシーを拾うよ」

 僕は通りかかるタクシーに手を上げて、六台目でやっと止まってくれた。ニコルが乗り込み、僕を申し訳なさそうに見え上げるのが、今度はタクシーの車内の明かりでちゃんと見えた。

「ありがとうございました、十束さん」

「うん、気をつけて。じゃあ、また」

 ドアが自動で閉じて、ニコルはタクシーの車内からでもこちらを見ていた。

 タクシーが走り去り、どうするべきか考えて、僕は俗典舎に戻ることにした。アリスにはこの話をしないわけにはいかない。

 もしかしたら男が待ち構えているかもしれないと思うと怖いが、仕方がない。男なんだから、と全く理論的ではないことを考えて、夜が一層深くなったような秋葉原の中へ戻った。

 雑居ビルはさっきとまるで違わない光景で、外には人の気配はない。

 恐る恐る中に入り、エレベータで最上階へ。やっと時計を見る余裕ができた。

 腕時計は、二十一時を指している。もしかしたらアリスはもういないかもしれない。でも実際に上がってみなければ、明かりがついているかもわからないのだ。

 エレベータが到着し、ドアが開こうという時、もしここで悪漢が待ち構えていたらとんでもないな、という妄想がいきなり生まれたけど、無情にもドアは開いた。

 通路には、誰もいない。

 ホッとして踏み出し、まっすぐに俗典舎のドアを開けた。

 明かりが漏れる。中に入ると、暖房が効いていて、たった今まで全く気温を気にしなかった自分が理解できて、どうやら平静を失っているな、と分析さえできた。

「十束さん?」

 本棚の前で、アリスが私服で本を手に取っているまま、目を丸くしてこちらを見た。

「ああ、その、アリスさん、問題があって……」

 どうやら僕の状態に何かを察したらしいアリスが手にしていた本を素早く棚に戻し、こちらへやってくる。

「何かありましたか? 顔が、真っ青です」

「うん、その……」

 僕は必死に言葉を探して、店を出てから視線を感じたこと、それで身を潜めていたこと、ニコルが出てきたところを男に襲われたこと、それを助けたこと、そんなことを説明した。

 黙って聞いていたアリスは何度か頷いて、最後に「わかりました」と強張った声で言った。

「警察に連絡しますから、少し待っていてください」

 明確な発音でそういうと、アリスはスマートフォンを取り出した。

 僕は急に脱力してしまって、椅子に座り、カウンターに両肘をついた。

 急に、何がどうなっているのか、わからなくなった。



(続く)

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