7-3 平凡な一日
◆
ニコルからは俗典舎で会いましょうなどと言われても、なんだかんだと理由をつけて僕はそれを回避して、それもあって秋葉原へ行く機会がめっきり減った。
そうしているうちに十二月になり、今度は大学の後期末が近づいている。試験とレポートの準備が必要になり、嫌が応にも忙しい。
それでも時間を作って、十二月中旬に俗典舎へいった。
ニコルが店頭にいる日で、実際、彼女と顔を合わせた。実に一週間ぶりの対面で、その一週間前は別の場所で会っていた。CDを物色したくて、渋谷のタワーレコードを念入りに探索して、それから新宿へ移動して、ディスクユニオンを巡ったのだ。
こんなに世の中にはCDがあるんですね、とニコルは呆れていたけど、それを言ったら世間の人の大半は、この世界にとても読み切れないほどの本が存在することも知らないだろう。
その日はいつかのアリスとの食事のように、中村屋でインドカリーでも食べるつもりだったけど、満員で入れなかったので、何故か新宿駅の地下にある、飲み屋の脇の蕎麦屋で夕飯になった。
こんな店に女の子を連れてくるのは、何かの熟練者みたいです、というのがニコルの感想だった。何の熟練者なのかは、僕にはよくわからないけど、女の子の意表をつく術としては価値がありそうだ。あるいは。
もっとも、いきなり高級レストランに連れて行かれるより、いきなり平凡かそれ以下の蕎麦屋に連れて行かれる方がときめきそうに感じるのは、創作の読みすぎ、見すぎだろうか。
そんな具合で、一週間ぶりのニコルは思ったよりも上機嫌で、僕にチャイを出してくれた。この店で飲むのは初めてだけど、美味しそうだ。結構、チャイが僕の好きな飲み物なのは、まだ誰にも言っていない。
「最近は何を読んでますか?」
まるで何も知らないようなふりでニコルがそういうのは、テーブルの方に二人の客がいて、本を読んでいるからだろう。連れではなく、それぞれにテーブルに分かれているから、一人客が二人なんだと思う。
あまり仲がいいところを他の客には見せられない、ってことか。会員証を発行するくらいだから、そういう気を使うことの必要性はあると僕も思う。
「ここのところは、森内俊之の新書だね」
「前に聞いた気がしますけど、誰でしたっけ……?」
「将棋のプロ棋士。第十八世名人資格保持者だよ」
「どういう意味ですか?」
僕は手身近に、そして物凄く端折って、羽生善治より先に一番重要な資格を得たってこと、と説明した。もっとも、一番重要なのは永世竜王かもしれないけど。
簡潔な説明ではニコルには何も伝わらなかったようだけど、知らない人には知りようがないような、マニアックなエキスだったな。
チャイを楽しんでから、僕は本棚の方へ行き、さて、何を読もうかと視線を巡らせる。
不意に「図書館戦争」のシリーズ六冊が並んでいるのが目に入り、ふぅむ、と思わず声が漏れてしまった。アリスもこの小説を読んだんだろう、やっぱり憧れるものだろうか。女の子の心理は、よくわからない。
結局、まったく関係のない、恋愛ともはるかに離れている、月村了衛の「影の中の影」の文庫本を手に取った。席に戻り、読み始める。
チャイの甘いのと同時にスパイシーな香りを感じながら読み進める。手に汗握るアクションシーンの連続で、その中でも暴力団の一員の、明らかにサイコパスな登場人物が僕は好きだった。はっきり言って異常者だけど、逆に何かに純真に見えるのは、不思議な作用だ。
チャイをすすり、おやつに手を伸ばす。今日はフロランタンで、皿の上には四つある。
ちょうどいい歯ごたえの、甘いクッキーを咀嚼しながら、ページを繰っていく。
背後で客が一人、席を立ち、もう一人はまだいるようだ。
あっという間に時間が過ぎて、ピアノが流れ始める。弾いているのはアリスだと、消去法ではなく、その音色で気づく。なんだろう、何かのタイミングに運指が早くなる気がする。
顔を上げてアリスの横顔を確認して、やっと何の曲なのか、意識が向いた。
洋楽だ。えっと、アース・ウィンド・アンド・ファイア、かな。曲名は、「セプテンバー」だ。
歌い出しが、ドゥー・ユー・リメンバー? だったな。
席を立って、本棚に文庫本を戻した。
僕が何を覚えているか、問いかけるようなピアノの音色。
でも何を問いかけているのかな。
もう一人のテーブル客はなかなか席を立とうとしない。
僕は先に会計を済ませて、ピアノだけの「セプテンバー」を聞きながら、店を出た。
エレベーターで地上へ降りて外へ出ると、不意に視線を感じた。視線を巡らせるけど、誰もいないようだ。でももう、日が暮れるのが早くなって、そこらじゅうに闇がわだかまっている。
何か、嫌な予感がする。
まさに直感がこの時、僕の背筋を控えめながら、撫でて通り過ぎた。
そっとその場を離れて、少し迷ってから、近くの電柱の脇に立った。街灯がないので、僕の体もすっぽりと闇の一つに溶け込んだだろう。
そのまましばらくすると、僕より後まで残っていた俗典舎の客が雑居ビルから出てきて、こちらへやってくる。じっと息を止めると、その男性は何にも気づかずにブラブラと僕の目と鼻の先を通り抜けて、そのままいなくなった。
自分がやっていることが急にバカらしくなってきて、結局、二十分ほどで探偵ごっこはやめることにした。
やめることにしたまさにその時、それは起こったわけだけど。
雑居ビルから出てきた小柄な影に、近づいていく別の影がある。
おいおいやめてくれよ、と思っている目の前で悲鳴が上がった。
その声は、ニコルの声だった。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます