7-2 お手上げ

     ◆


 久しぶりに俗典舎へ行ったのは十一月も半ばで、店にはミストがいた。

「なんでも色っぽいことになっているとか」

 紅茶を持ってきて、そんなことを言う。

「色っぽいというよりも、芋っぽいかもしれませんね」

「どういう意味?」

「僕が冴えない、ということです」

 そう言いながら、僕は将棋を指すそぶり、駒を将棋盤に置く動作をする。首を傾げるミストの前を離れて、本棚から大崎善生の「聖の青春」を持ってきた。まだ映画化もされていなかった頃の版なので、松山ケンイチが扮する村山聖と東出昌大が扮する羽生善治の実写映画のカバーはない。

「ああ、その本ね」

 皿に乗せたチョコのブラウニーを差し出しながら、ミストが何かに気づいたようだった。

「たまにアリスちゃんがめくっているわね。栞が挟まっているでしょ?」

 言われてページをめくると、確かに栞が挟まっているけど、二つある。片方の栞は村山聖が師匠の森信雄と大阪で暮らし始めるシーン。もう一方は最後も最後、村山聖が亡くなるシーンだった。

「ちょっと泣いているみたいよ」

 そうミストが付け加えて、へぇ、と思わず声が出た。通読してみると、どちらのシーンも感動するのだ。僕はこの小説を、五回くらいは読んでいるだろうけど、何度読んでも発見があるし、感動がある。

 名作とはそういうものなのだ。

「ガルシア・マルケスの話をしたとも聞いているけど」

 そんな風にミストが探りを入れてくるので、こうなっては堂々と跳ね返すしかない。

「僕たちの関係は「コレラの時代の愛」に似ている、って匂わせたんですよ」

 それはまた過激なこと、とミストが笑う。どうやら読んだことがあるらしい。

「二人の間に、豚のしっぽが生えた赤ちゃんが生まれたら、秋葉原が更地になったりして」

 いきなりミストがやはりガルシア・マルケスの「百年の孤独」の一場面を引っ張ってきたので、僕は苦笑いしてしまった。

「もしそうなるのなら、その前にこの店の中に、どうやって入れたかわからないほど大きな牛を入れておきますよ」

「「族長の秋」よね、そのネタは。あなたって本当になんでも読むの?」

「なんでもは読みませんね。文字で書かれている小説だけです」

 参った、とお手上げのポーズをして、ミストは離れていった。

 そんな具合で、どうにか誤解を解けたか、あるいは解けないか、もしくはより深刻になったかは知らないけど、事情聴取は終わったので、僕は「聖の青春」に取り掛かった。

 世の中には病気で苦しむ人が大勢いるけど、村山聖という人がもし健康だったら、ということは、考えても仕方ないんだろう。そんなことを考えたら、この世界には数え切れないほど、病気でその素質や才能を活かせなかった人がいて、収拾がつかなくなる。

 村山聖は幸運だった、ということも、やっぱりできない。彼の打ち立てたこと、この世界に刻み込んだことは、決して運ではなくて、努力の積み重ねの上に立っているのだから。

 そう思うと、この小説の解釈は極端に難しくなる。

 村山聖という人の全力の生き方に感動する、ということかもしれない。

「いい本ですよねぇ」

 急に声をかけられて顔を上げると、カウンターの向こうでタオルで手を拭うアリスがいた。嬉しそうに微笑んでいる。

「この本が好きだって聞いたけど?」

「ええ、好きですよ。その本で将棋オタクになりかけました」

「好きな棋士は?」

「藤井さんです」

 おっと、似たようなジョークの感覚の持ち主がいるじゃないか。でも僕はそれで不機嫌にならないところが、ニコルとは違う。

「玉飛接近はセオリーに反するんだよね」

 さりげなくそう返すと、そうですね、とアリスが笑う。

「でも、居飛車穴熊にはシステムはまだ使えるんじゃないですか」

 結構、深いことを言ってくるけど、さすがに僕はそこまで将棋に詳しくない。

 今度は僕がお手上げをする番だった。

「実はそこまで詳しくないんだよ。アリスさんは勉強家だな」

「いえいえ、今のが私の限界です。藤井猛さんは将棋のスタイルというより、その人格が好きで、追いかけています。解説とか、面白いんですよ」

「ああ、それはわかるね。不思議な人だよね。プロ棋士では、木村一基さんのトークも面白い」

 二人でクスクスと笑い、僕が本へ戻ろうとすると、アリスが少しだけ顔を近づけ、小声で言った。やっと聞き取れるか、というくらいの声量だ。

「ニコルちゃんと付き合うんですか?」

 ここでラスボスが来たな、という感想しかない。

「僕はまだ何も決めていないけど」

 冷静になるように自分に言い聞かせることはあっても、今ほど真剣に言い聞かせたことはなかなかない。

 ニコルのことは嫌いじゃないし、悲しませたくない気持ちがある。でも僕が曖昧な気持ちで接することが、まさしく彼女を傷つけ、悲しませるだろうことは、想像に難くない。

 それでもまた、何も決められないのが、僕の心情だった。

 そんな僕をじっと見ると、アリスはちょっと怒ったようだった。

「私は、優柔不断な人は嫌いですよ」

 言い含めるようにそう言われては、肝に銘じます、と答えるしかない。

 調理室からミストが戻ってきて、アリスは彼女と入れ違いに奥へ入っていった。ミストが僕の前にやってきて、紅茶のおかわりを注いでくれる。

「女の子を怒らせたり泣かせたりしちゃダメよ、十束さん」

 ミストにもそんな風に釘を刺される始末とは、僕も本当にダメ男らしい。

 何度目かわからないお手上げをしてみせるけど、誤魔化してもダメだよ、と追い討ちを誘っただけだった。

 まったく、この手の問題は、手にあまる。



(続く)

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