第7話 有川浩とマルケスと月村了衛

7-1 恋愛小説とはかけ離れた世界

     ◆


 十一月の秋葉原は急に冷え込み、今も昔もファッションに疎い趣味人たちもコートを羽織るようになった。

 僕もその例に漏れず、春先にセールで手に入れた去年の新商品だったのだろうライダースジャケットを羽織っていた。真っ黒で何の飾り気もないけれど、寒さはしのげる。

「なんか、不自然なファッションですね」

 秋葉原駅の電気街口、その時計の所で待ち合わせたニコルがそんなことを言った。確かに僕は、ライダースジャケットを羽織っているのに、その下はチェックのシャツで、ズボンはチノパン、靴はコンバースだった。チグハグではある。

「もっとお洒落に気を使わないんですか?」

 そういうニコルは、俗典舎にいる時とは違って、可愛らしい服装である。どこのブランドか知らないけど、柔らかな暖色のボレロとか、ロングスカートとか、普段の黒いワンピースに白いエプロンより、個性がある。

「しかし秋葉原で待ち合わせとは、いつもと変化なしだね」

 そう僕から言ってみると、行く方向は逆ですけどね、とニコルは返して、さっさと歩き出した。方向は南だから、神田にでも行くのだろう。神田は古本屋街が有名だけど、僕はあまり行ったことはない。

 並んで歩きながら、僕とニコルはいつも通りに本の話題を交換した。

「ボビー・フィッシャー?」

 いきなりニコルの口から「完全なるチェス」の話題が出たので、声を漏らしてしまった。

「それはまた、懐かしいな。映画を見たよ。「完全なるチェックメイト」だ。見たこと、ある?」

「ありませんよ」

「主人公のボビー・フィッシャーの俳優がドビー・マグワイアなんだけど、それよりもソ連のチェスプレイヤーの、スパスキーの役者がすごいよ。めちゃくちゃかっこいい」

「そのうち、見ておきます」

 そんなニコルの言葉に、僕は思いつくままに、将棋のプロ棋士の話題を向けてみた。有名どころの羽生善治、森内俊之、谷川浩司、といった少し前に勇名を馳せたプロ棋士から、もう少し前の米長邦雄や加藤一二三、大山康晴へと話は流れた。ニコルはただ相槌を打っている。

「藤井さんも捨てがたいな」

 ちょっとしたからかいでそういうと、ニコルがチラッとこちらを見る。

「藤井聡太さんですか」

「なんとびっくり、僕が言っているのは藤井猛さんだよ。藤井システム、知らない?」

 知りませんよ、とニコルがそっぽを向いた時、僕たちはさぼうると言う喫茶店の前に立っていた。将棋について話すのに必死で、自分がどこをどう巡り歩いたか、全く覚えていない。ここはどこなんだろう? 御茶ノ水? 神田?

「手くらいつないでくれてもいいじゃないですか、十束さん」

 店の前でいきなりそんなことを言われても、困る。

「セクハラを疑われるかもしれない」

「二人で歩いているんですよ、セクハラなんてないですよ」

「僕は見たことがないけど、「それでも僕はやっていない」っていう映画があってね、冤罪なのに、結局、そのまま有罪判決を受けるって話もある」

「私が訴えないんですから、問題ないんです!」

 そう言っていきなり、ニコルは僕の手を掴み、喫茶店に入っていった。というか、僕を連れ込んだ。

 席について、コーヒーを頼んで、軽食は何があるのかと思ったけど、メニューを見ている僕にニコルが「お昼ご飯は別で食べます」とそっけなく言った。まさしく休憩のために店に入ったらしい。

「えっと、高校生とあまり親しくすると、外聞が良くない」

 コーヒーが運ばれてきたのに対し、黒い液体へミルクと砂糖をどんどん入れるニコルに指摘してみると、笑顔が返ってくる。明らかに演出過剰な笑みだ。

「だから、私が許しているんですから、外聞も何もありません。高校生だって恋愛くらいします」

 おっと、豪速球がすごい内角を攻めてきた感じだ。

 恋愛ときた。

 ちょっとドキドキしながら、僕はコーヒーをすすってどうにかやり過ごそうとした。

「「図書館戦争」って読みましたか、十束さん」

「有川浩だね。「図書館戦争」シリーズは通して読んだし、本編四冊に加えて外伝二冊も読んだかな。「レインツリーの国」も押さえたし、あとは「阪急電車」とか「植物図鑑」も読んだ。自衛官が主人公の奴も読んだよ」

 いつも通りにペラペラしゃべる僕だけど、これじゃあまるで動揺しているみたいじゃないか。

 嬉しそうにコーヒーをかき混ぜながら、ニコルが言う。

「いいですよねぇ、ああいう世界観」

 ニコルはミステリを好んで読む感じだと思っていたけど、乙女な側面もあるらしかった。

「ガルシア・マルケスの「コレラの時代の愛」みたいな恋愛もある」

「誰ですか、それ?」

 その返事を聞いて、自分が決定的に失言をしたことに気づいた僕は、むしろ救われた形だった。九割九分が失言で、ほとんどジョークになっていない一言だったけど、少なくとも世間一般的な恋愛観の議論からは遠ざかったから。

「ノーベル文学賞を取ったね。マジックリアリズムっていう手法を多用してね……」

「村上春樹みたいなものですか?」

「まぁ、似ているけど、だいぶ違う。村上春樹を読むの?」

 急にニコルが頬を赤らめるのが、薄暗い室内の照明でもよく見えた。

「一応、勉強として読みました」

「へぇえ、どれを?」

「「ノルウェイの森」です」

 ……今日の僕は、失言をすることを定められているらしい。

 まったく、女の子が「ノルウェイの森」が好き、などと口にする世界観は間違っている。名作ではあるけれど、あの作品はあまりにも露骨すぎる。せめて「ダンス・ダンス・ダンス」くらいが女の子に許される限度だろう。いや、どうだろう……、僕も混乱している。

 そんな具合で妙な雰囲気で喫茶店をやり過ごし、ニコルがオススメというカレー屋さんでカレーを食べたけど、あまり覚えていない。

 思考の半分は村上春樹を分析し続け、半分は、ニコルがどうやら僕に恋していることを、どう受け止めるか、それを考えていた。

 まさか、二人で延々と一日中、東京を歩き回るわけにもいくまい。

 村上春樹ではないのだから。

 いや、歩いたのは村上春樹ではないが。



(続く)

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