6-5 一枚のメモ
◆
十月下旬までに僕は俗典舎でミストとは一回、エレナとは二回、ニコルとは三回、顔を合わせた。
アリスはといえば、頻繁に店にいるようだけど、調理室にいて滅多に顔を合わさない。営業時間後の整理を見ることもなかった。
変わってきたのはニコルが不機嫌そうな日が増えたことで、ニコル自身に確認するわけにもいかず、エレナあたりに探りを入れてみたけど、エレナは「乙女ですからね、ニコルちゃんは」と言っていた。
乙女ですからね、とは何を意味するんだろう?
十一月になり、いよいよ秋も深まり、上着がないと寒いようになった。
「いらっしゃいませ」
その日もニコルが出迎えてくれた。僕を見て、ピキッと少し表情が固まる。
「髪の毛が短くなった」
なんか前も言ったはずだけど、気づいたのでそう言ってみた。今日も不機嫌なようだし、もし間違っていてもいいか、という投げやりな気持ちだった。
するとどうだろう、ふっとニコルの表情が緩み、そして微笑みに変わる。
「十束さんのそういうところ、直したほうがいいですよ」
そんなことを笑顔で言う。何をどう直せばいいのか、それを質問すると、また不機嫌を呼び起こしそうだった。考えておくよ、と言って、僕は賀来さんの隣の席に座った。賀来さんが読んでいるのは、色川武大の「怪しい来客簿」のようだ。色川武大と阿佐田哲也が同一人物とか、もう忘れ去られた情報かもしれない。
僕はお茶が出てくる前に本棚に行って、エイドリアン・マッキンティの「コールド・コールド・グラウンド」を手に取った。席へ戻ると、素早くニコルがハーブティーを入れてくれる。おやつはロールケーキだ。クリームにナッツが入っている。
しばらく読書に集中して、お茶を少しずつすすった。
賀来さんが一度、席を立ち、戻ってくる。手に持っている本をちらっと見ると、将棋のプロ棋士である渡辺明の新書だった。あまり色川武大との関連性がないけれど、もしかしたら色川武大から阿佐田哲也を連想し、麻雀から将棋棋士を連想したかもしれない。意外に将棋のプロ棋士は勝負師だからか、麻雀も好むようだと僕は知っていた。
僕は海外ミステリーの世界に深く潜り込んで、時間をまた忘れた。
ピアノが聞こえる、と思うと、アリスがいつの間にかアップライトピアノの前にいて、何かを弾いている。まるで眠り込むように、本に入り込んでいたようだ。
賀来さんはすでに会計を終えて、出て行ってしまった。僕は本棚に本を戻しに行く。
ピアノを弾きながら、アリスがこちらを見る。視線が合って、どう考えていいかわからず、曖昧に笑ってみせる。アリスはかすかに顎を引いた。
僕はニコルにお金を払い、店を出た。もちろん最上階の通路に人気はない。背後からかすかに、ドアを通してピアノの音が聞こえた。客はもういないのに、最後まで弾き切ろうとするところは、アリスらしい。
エレベータを待っていると、ドアが開く音がしたので振り返った。そこにはニコルがいる。
「十束さん、これ、渡しておきます」
駆け寄ってきたニコルが何かを僕に押し付け、すぐに離れていく。エレベータが到着した電子的ながら涼しい音がする。
「私の髪の毛に気づいてくれたの、十束さんだけです」
そう言って身を翻した次には、彼女はドアを開けていて、僕が見ている前で背中が俗典舎の中に消えていく。
ぼんやりしていて、危うくエレベータに乗り損ねかけた。無理やり閉じかけたドアを開け、乗り込み、一階のボタンを押す。そうしてやっと、押し付けられたメモを開くことができた。
十一桁の数字、つまり電話番号が書かれている。
これはいったい、どうしたものかな……。
ニコルが何を考えているのか、よくわからないけど、少なくとも嫌われているようではない。では、電話番号を教えて、彼女がどんな得をする?
電話したいのかな。
電話して、どうなる?
ぐるぐると考えつつ、エレベータのドアが開いたのでさっさと降りて、建物を出た。見上げてみても、そこにはのっぺりとした雑居ビルの壁があるだけ。俗典舎のあるはずの場所も、窓はあっても真っ暗だ。窓は塞がれているから。
うーん、僕はいったい、どうしたものか、まったくわからない状況だ。
いつかの賀来さんの言葉が思い出された。
ウエイトレスに用心するべき、とはこのことか。そして僕は、キルゾーンに入っているのかな。
でも、ニコルはあの通りの普通の女の子だし、別に二股とかにはならないはずだ。僕だって、付き合っている女性はいない。
なら、お互いに一人ずつで、仲良くするのはそれほどの危険も孕んでいないと思うけど。
ただし俗典舎に今まで通りに通えなくなる可能性はあった。その思いが少し、事態をややこしくしているのは確かだ。
参ったなぁ。
いつまでもビルを見上げているわけにもいかず、僕は駅へ向かって歩き出した。手にはまだメモを持っている。なくすわけにもいかないけど、しかし、受け取ってしまった事実が、なんとも、重い。
もっと僕が経験豊富なら、うまくやり過ごせるのかもしれないけど、はっきり言って僕はこの手の事態には初心者中の初心者である。自慢にもならないけど、事実だ。
何度目かの参ったなぁを心の中で唱えつつ、街の明かりの下で、寒い風に吹かれて、着ていたパーカーのチャックを少しだけ首元へ引き上げた。
どうやら、全く予想もできない形で、この秋は忘れることのできない季節になりそうだった。
(第6話 了)
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