6-3 老婆心
◆
十月になり、大学では学園祭の準備が始まったけど、僕が所属するサークルはほとんど実態のない活動が目的なので、特に何もしないのは去年と同じだ。
あまり学校に知り合いも多くいないし、誰にも誘われないので、僕は学園祭当日さえも秋葉原にいた。店舗は珍しく混んでいて、カウンターが一席空いている。それでももう一つのカンター席には賀来さんがいるわけだけど。
「この前の雨の日はどうなった?」
例の台風の日か。
「時間を潰して、深夜に帰りましたよ。電車の運転が再開するのを待ったんです」
「どこで?」
「それは秘密です」
別に秘密でもないのだけど、アリスと二人きりでこの店にいたことは、黙っているべきかなと思った。まぁ、アリスが話したいと思えばアリスのしたいようにすればいいし、なるようになるだろう。
今日のウエイトレスはニコルだった。
「どうぞ」
カップが差し出されて、アップルティーだった。おやつはスイートポテトだ。
「最近は何を読んでいる?」
本棚から席に戻った時、賀来さんにそう言われて本を見せた。
「とんでもなくマイナーだな」
僕の手にある本は阿佐田哲也の「雀鬼くずれ」と言う文庫本だった。
阿佐田哲也といえば「麻雀放浪記」がすぐに浮かぶけど、他にもいくつも短編、あるいは掌編のギャンブル小説を残している。「雀鬼くずれ」もそのうちの一冊で、僕はこの店で初めて見た。何冊かは手元にあるけど、古本を当たるしかないので、すぐには全部は揃わない。
「ブックオフにもないんじゃないか? ほとんど資源ごみだな」
そんな評価をする賀来さんに、僕は笑ってみせる。
「その資源ごみを、ブックオフで百円で買うのが僕ですよ」
「そんな言葉を聞くと、書狼、書豚、書痴の話が現実の世界で生まれた言葉だと実感できるね」
なるほど、と頷いて見せるしかない。
本を開いて読んでいるうちに時間は過ぎていく。空調や間接照明のせいで、俗典舎という店は、ほとんど季節とは無縁だ。季節が反映されるのは、おやつくらいだった。
客の顔ぶれはあまり変化がないし、そもそも僕は他の客をそれほど気にもしない。それは相手も同じだろう。賀来さんが例外的な存在と言える。
カチリと時計の針が動く音がして、顔を上げる。
時計は十七時四十五分だった。そろそろ閉店だ。文庫本はあとは三十ページほどである。ちょっと今日中には読めないだろう。しおりを挟み、残っていたアップルティーを飲む。ニコルがおかわりを確認するのを、そっと断る。
時間まで居座る気になって、本棚の前で、文庫本を戻した後もそこに立って、視線をゆっくりと巡らせた。
心の本棚か。
僕の実家には本棚があったけど、今のアパートのワンルームにはさすがに置いていない。
なので本は全て、箱に押し込まれているか、床に直接に積み上げてある。それほどの量ではないつもりだけど、まぁ、そこは感覚が普通じゃないかもしれない。内藤陳なんかは床が沈むほど本を持っていたらしいけど。
いつか僕も本棚を持てば、こんな風な本棚を作るのかな。
五十音順でもなんでもない、自由気ままに本が並ぶ本棚。
それは書店などで見る本棚とは違う、生きた本棚なのかもしれない。無機的じゃない、何かを訴えてくる本棚か。
すっと背後に気配がして、振り返るとアリスがこちらを横目にアップライトピアノの前に立った。
何を弾き始めるかと思ったら、日向坂46の「こんなに好きになっちゃっていいの?」だった。
驚いて動けないまま、僕はそこに立ち尽くしたままで綺麗にピアノアレンジされたその曲を聴いた。
「本日も、ありがとうございました」
弾き終わったアリスが頭を下げる。こちらも頭を下げ、席へ戻る。すでに賀来さんは席を立って、ニコルに会計の五百円玉を手渡している。
ちらっと背後を振り返ると、アリスが手を振っている。
うーん、何が何やら。ニコルに五百円を支払い、こちらではニコルの笑みがぎこちない。
「ありがとうございました」
「じゃあ、また、ニコルさん」
さりげなくアリスの方を見ると、アリスは頭を下げた。
外へ出ると、賀来さんがエレベータに乗り込んだところで、ドアを開けて待っていてくれる。駆け足で僕も乗り込んだ。
「老婆心で言っておくが」
賀来さんが稚気でできた笑みを見せて、僕の肩を叩く。
「女には用心したほうがいい。特にウエイトレスにはな」
はあ、としか言えない。賀来さんが何を考えているか知らないけど、今のところ、用心する必要がある危険な領域には踏み込んでいない。いないはずだ。
「キルゾーンに入っている、っていう奴だぞ」
そう賀来さんが言うので、こちらもやり返す気になった。
「カラスも青いうちは突き申さず候?」
知っているじゃないか、と賀来さんが相好を崩す。
エレベータが一階に到着し、二人で並んで外へ向かう。
「過去に何かあったような口ぶりですけど、僕の勘違いですか?」
最後の最後で疑問を放り込んでみたけど、賀来さんは普段通りだった。
「あったかもしれないし、なかったかもしれない。下天のうちにくらぶれば、夢幻の如くなり、だな。じゃあな、青年」
ひらひらと手を振って賀来さんは去って行った。
まったく、「イノセンス」の後に能を引用するのは、めちゃくちゃな組み合わせだよ。
僕は賀来さんの言葉を振り返りつつ、駅へ向かって歩き出した。
そろそろTシャツで済ませる時期じゃないな。肌寒さを感じる夜の秋葉原である。
もう、秋か。
(続く)
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