6-2 心の本棚
◆
九月が終わった初めての週末、僕は秋葉原にいたけど、朝からすごい雨だった。
季節柄、台風が近づいているのだった。
「そんなに必死になるかね」
ずぶ濡れの僕を眺めながら、帰り支度の途中の賀来さんが言う。
「ただ一枚のCDに」
「仕方ないじゃないですか、新宿で品切れなんですから」
僕は雨の中、最寄りの駅のCDショップへ行き、そこから新宿のCDショップへ行き、そのまま秋葉原まで流れてきたのだった。
水曜日に発売されたCDで、あっという間に売り切れてしまうほど、大人気のアイドルグループのアルバムだった。
「何坂だっけ? スペイン坂?」
賀来さんのジョークに、日向坂です、と答えておく。若い者の趣味はわからない、という返事だった。そんな言葉を残して去っていく客を見送り、アリスがこちらを見る。
「どうも中央線も京王線も、おまけに総武線も止まってますよ」
「え、そうですか、参ったな」
事実上、僕は都心に取り残されたことになる。アリスは台風を考えてだろう、他のウエイトレスには休んでもらっていたようだった。もっともこんな日にも俗典舎へやってくるのは、賀来さんと僕だけだ。
珍しく自分のスマホを見ながら、アリスが言う。
「でも雨も、二十時くらいには止むようですね。線路とか架線に問題がなければ、電車も動くんじゃないですか」
「アリスさんは帰れるの?」
「すぐそばですから」
それは羨ましいな。
とりあえず、十八時までは店にいさせてもらおうとすると、何を言うより前にアリスの方から「二十時まではここを開けておきます」と言ってくれた。
「アリスさんに申し訳ないけど」
「いつも二十時くらいにここを出るんです。私も雨には濡れたくないですし」
ならお言葉に甘えて、と何かのセリフのようなことを言って、僕は読書に入った。今日、読んでいるのは三浦しをんの「月魚」だった。この文庫本が俗典舎には二冊ある。古い装丁と新しい装丁だ。
お茶だけじゃお腹が空きますよね、と言って答えも聞かずにアリスは調理室に消えていった。
しばらく文庫に目を落としていると、いい匂いがし始めた。どこかで嗅いだ匂いだけど、思い出せない。
時計を見ると、いつの間にか十九時半を回っている。窓があるだろう方を見るけど、もちろん窓そのものも見えず、外は見えない。しかし雨音はたしかに弱まってきた。
よかった、帰れそうだ。
「お待ちどうさま」
いきなり声がして、勢いよく振り返ると、アリスが何かの皿をこちらに持ってくる。
香ばしい匂いは、イングリッシュマフィンのそれだ。皿の上にあるのは、イングリッシュマフィンを使ったサンドイッチだった。ちらっと中を見ると、レタス、ハム、チーズというシンプルな具が挟まれている。
「美味しそうだね」
「イングリッシュマフィン、四回目くらいです」
思わずパチパチと瞬きしてしまった。
「四回目? 作ったの? ここで?」
「そうですよ」
ああ、これはすごいな。
冷めないうちにどうぞ、と促されて、礼を言って食べ始める。
このサンドイッチは、今までも、これからでも、きっと一番美味しいサンドイッチの座を維持するだろうな、と確信に近いものがあった。
ものすごく、ものすごく美味しい。
「どうですか?」
「言葉もないです」
頬張りつつそう答える僕に、大げさですねぇ、とアリスは笑っている。
僕がそれを食べている間に、アリスは本棚の方へ行ってしまった。眺めていると本棚の本を入れ替えているのがわかる。整理しているんだ。
サンドイッチを最後まで食べて、おしぼりで手を拭って、アリスの様子をじっと観察する。
「何か法則性があるの?」
そう声をかけると、肩越しにアリスが振り返る。
「法則はないと思いますね。ただ、しっくりする場所に並べているだけです」
席を立って彼女の向こうの本棚を見ても、やっぱり規則性はない。それは今まで、何度も何度もこの店に来て、繰り返し本棚の本を読んだ僕が、一番知っている。
この店の本棚の並びは、不自然ではない不規則性がある。
落ち着く不規則、とでもいうべきだろうか。
今もアリスの手が、皆川博子の「蝶」を、湊かなえの「夜行観覧車」と宮部みゆきの「夜のピクニック」の間に差し込んでいる。まったく関連性はないな。
「ここは、私の本棚でもあります」
そう言われて、不意に遠藤さんの言葉が思い出された。
「遠藤さんがたしか、そんなようなことを教えてくれました」
振り返ったアリスが照れているのが、今の僕にはわかった。それくらい、彼女の顔を見ているのだ。
「私の心の中の本棚を、この店に置いているんですよ」
「心の中の本棚?」
その言葉が意味するところを計り兼ね、少しの沈黙の後、不意に気づいた。
「ここの本を全部、アリスさんは読んでいるの?」
「そうですよ」
この女の子は本当のことを言っているのか、疑うべきかもしれない。
でも少しも疑う気にはならなかった。彼女が嘘や誇張を口にする必要はない。
「まぁ、その並べ方を見ていれば、納得できるね」
「夜更かしばっかりしちゃって、不健康ですけどね」
おどけた言葉に、僕は真面目に答えることにした。
「僕だってたまには、明け方まで本を読むよ」
「それはものすごく少数派です」
アリスは言いながら、また本を入れ替えた。大沢在昌の横に円城塔を並べる。田中慎弥を少し迷って、右へやったり、左へやったりする。
「ここじゃないの?」
指差したところは、阿佐田哲也と江戸川乱歩の間。
「ちょっと違いますね」
アリスがそう言いながら、また迷っている。
外の雨はいつの間にか、音もしなくなっていた。
(続く)
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