5-5 いつかは変わっていく
◆
そろそろ夏休みも終わろうという時、やっぱり僕は秋葉原にいて、何気なくヨドバシカメラの上の有隣堂にいた。
ハヤカワ文庫の棚で、デイビッド・ベニオフの「卵をめぐる祖父の戦争」を買うべきか迷っていた。たまたまタイトルを知ったのだけど、それはハヤカワ文庫のフェアの小冊子でだった。
「十束くん?」
声をかけられてそちらを見ると、遠藤さんが立っている。
「ああ、遠藤さん、こんにちは」
「何を読んでいるの?」
僕は手に持っている本を見せた。ああ、という感じで、遠藤さんが頷く。
「それは面白い本よ。結構、コントみたいな場面が多くてね」
「読んだんですか?」
「たまたまね。ちょっとだけ第二次大戦中を舞台にした作品が気になった時があって」
例えば、と訊ねる前に、遠藤さんがこれとかと言って、アリステア・マクリーンの「女王陛下のユリシーズ号」の文庫を引っ張り出した。タイトルは知っていたけど、この手の海外小説の文庫はいやに高額で、なかなか手が出ないのが僕の現実だった。
「でもこれは、俗典舎にあったはずよ。部屋を片付けた時、見た記憶があるもの」
「それならあそこで読もうかな」
それがいいと思う、と遠藤さんが頷いて僕の方を見て、何かに気づいて素早く僕の腕を掴んだ。驚いている間に、ぐっと引っ張られる、二人で並ぶような立ち位置になる。あまりに遠藤さんが近すぎて、心臓が一瞬止まった気がした。
「どうしました?」
「青柳くんがいるのよ」
言いながら、遠藤さんは僕を引っ張り、二人で寄り添ったまま移動していく。これは逆に目立つだろう。
「別に隠れる必要もないと思いますけど」
「彼女と一緒なのよ。私はどういう子か気になるけど、十束くんはそうでもないの?」
それは気になるな。俄然、興味がわいた。
二人で少し離れて、棚の陰からそちらを伺う。
確かに青柳がいる。隣にいる女の子は、年齢は僕や遠藤さんと大差ない。少し小柄で、髪の毛は短く、髪色は深い茶色だ。
あれがねぇ、などと遠藤さんがつぶやき、まだ観察するつもりだった僕を、遠藤さんが引っ張ってその場を離れさせようとする。
「あまり邪魔しても悪いから、さっさと行きましょ」
二人でエスカレーターを降りて、そのまま地上まで行く。
「さっさと我らが隠れ家に向かいましょう」
そんな風に言って遠藤さんが向かう先は、俗典舎のようだった。
「遠藤さんは知っていたんですね」
「え? 何を?」
「え? 青柳の恋人ですよ」
「まさかまさか、今日、初めて見たし、何も聞いていなかった」
危うく往来で立ち止まりそうだった。
「でも、仲がいいんですよね、遠藤さんと青柳って」
「本好き友達、って感じね。プライベートには踏み込まない」
しかしついさっき、やっぱり遠藤さんは青柳の恋人の存在を知っていたんじゃないか?
もしかしてこっそり調べたのだろうか。俗典舎でそういう話があってもおかしくない。気になるところではあるけど、遠藤さんに根掘り葉掘り聞くのも悪いか。
「これで青柳くんもいっぱしの人間になったわね」
ゲームセンターの前を抜けながら、遠藤さんがそんなことを言う。
「時間って流れるのねぇ。それは私にも言えることだけど。年をとっちゃったなぁ」
二十歳くらいの女子大学生がそんなことを言うのは可笑しかったけど、どうにか笑うのは我慢した。僕もそのうち、自分が年をとったことを考えたり、誰かの変化にささやかな感動と何かしらの実感を受けるのだろうか。
「みんな、大人になっていくわね。アリスちゃんも、ニコルちゃん、エレナちゃんも」
ミストさんに年齢の話はしないほうがいい、ということのようだ。
「いつかはみんなが変わっていくと思うと、おばさんとしては寂しいわ」
「おばさんじゃないと思いますけど」
そこは押さえておくべきだろう、と素早くつっこんでおく。それはありがとう、という返事だった。
雑居ビルにたどり着いて、最上階へ上がる。
ドアを開けると、紅茶の匂いがふわりと漂う。空いているわね、と遠藤さんがこちらを見る。二人で中に入ると、カウンターで賀来さんが本を読んでいるだけだ。店頭では、アリスが賀来さんに捕まって、何か話をしている。
彼女がこちらを見て、顔をほころばせる。
「いらっしゃいませ」
僕と遠藤さんでテーブルの一つに向かい、さっきの本を探しましょうか、と荷物を置いて、すぐさま本棚へ移動した。
とにかく大きな本棚なので、一冊を探すのに苦労する。
「やっぱりこの店の本の並びは独特ね」
そう言った時には、遠藤さんの手にまさにアリステア・マクリーンの「女王陛下のユリシーズ号」がある。驚きを通り越して、超能力か何かかと疑ってしまう。本棚に熟練しているというか、鮮やかな速さだった。
「この本棚の並びは、アリスちゃんの心の中なのよねぇ」
よくわからないことを言いながら、遠藤さんは景山民夫の「虎口からの脱出」を抜き出している。読んだことがあるけど、第二次世界大戦ではなく、満州事変の頃の中国が舞台の小説だったはずだ。
二人で席へ戻ると、レモンティーをアリスが運んできて、この日のおやつのマドレーヌが皿に乗せられてやってくる。
礼を言って、僕と遠藤さんはそれぞれに本を開いて、読み始める。また賀来さんがアリスを捕まえて、何か話しているけれど、よく聞こえなかったし、聞く気もない。
のんびりした時間の中で、こうやって本を読んでいると、まるで時間から切り離されているような気がした。小説の世界の時間が、僕の世界の時間に取って代わる。
こんなことばかりしているから、僕は世間一般から離れているのかもしれない。
でもそれが悪いことだとは、不思議と少しも思えないのだった。
ページをめくる音が、ひっそりと耳に届いた。
(第5話 了)
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