5-2 会員番号

     ◆


 チャンドラーの「長いお別れ」を読み直していたけど、村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」の方が好きだな、と早々に本を閉じることになった。

 ちょうどお茶を注ぎにニコルがやってくる。

「遠藤さんってどういう人?」

「お客様の個人情報は話せませんよ」

 ぴしゃりとニコルがそう言うので、個人情報っていうか、お店の話、と方向を修正する。

「賀来さんから聞いたけど、かなり古い時からのお客だって?」

「まぁ、そうですね、初めてお会いしたのは、三年前です」

「三年?」

 その言葉に、僕は遠藤さんよりもニコルのことが気になった。

「ニコルさんはその時、何歳なの?」

「十四です」

「十四で働いていたわけ?」

 そんなこともないだろう、と思いながら、答えも見つからないで、そんな質問をしていた。ニコルは苦笑いだ。

「ただのお客でしたよ。どこかのメイド喫茶で働きたいとは思っていましたけど」

「ああ、そうか、なるほど」

 十四歳でアルバイトなんて、その、不良だ。健全な不良だ。

「それで遠藤さんとは、このお店で知り合ったんです。遠藤さんは高校生でした」

 時系列を確認すると、おおよそ無理のない話だ。ただ、そうなるとこの店がいつからあるのか、気になる。

「俗典舎って今年で何年目?」

「営業を始めてですか? 四年か五年ですよ」

「アリスさんは今、短大に通っていると聞いているけど」

 困ったように笑いながら、しかし毅然とした態度に戻り、ニコルが答える。

「あまり個人情報に踏み込んじゃダメですよ、十束さん。お店のこととか、アリスさんのことは、アリスさん自身にお聞きになってください」

「ああ、うん、ごめん、悪かった」

 そんな返事をしたところへ、ちょうど調理室から当のアリスがやってきた。

「何の話をしているんですか?」

 アリスの方から促してくる。ニコルが顔を少ししかめた。

「お店の歴史が知りたくて。お店を開いたとき、アリスさんが何歳だったか、っていう話」

 ニコルを横目にそう訊ねると、アリスは困ったように笑った。

「私の年齢ですか? それは非公表ですけど、高校生でした」

「高校生で経営者?」

「店舗責任者ですね、形だけだけど」

 言葉遊びだなぁ、と思いながら、そうなると、アリスと遠藤さんはほとんど同じような年頃だ。まぁ、それを言ったら僕も青柳もそうだけど。

 田舎では高校生でアルバイトというだけでも変な目で見られるのに、さすがは東京、さすがは都会だ。

「遠藤さんはもしかして一番古い客?」

「一番じゃないけど、古い頃からのお客様です。あの方が寄付してくれた本も多くありますよ」

 へぇ、と言いつつ、思わず本棚の方を見てしまう僕である。

 遠藤さんは何を読むんだろう。

「私も遠藤さんも、ちょっと変わった子供でしたから」

 そんな風にアリスが話し始めた。

「高校生で、あまり友達もいなくて、趣味は読書で。まったく違う高校に通っていて、電車でほんの短い時間だけ、同じ車両に乗っていました。私も彼女も、いつも乗る位置を決めていたんですね」

 しみじみという感じで、アリスは言う。

「私も彼女には気付いましたけど、声をかけてきたのは彼女が先です。何の本を読んでいるか、という程度の軽い感じでした。何? この人、と思いましたけどね」

「何の本を読んでいたの?」

「あの時は、東野圭吾の「ゲームの名は誘拐」でしたね」

 なんか、どの時間か想像しづらいチョイスだ……。

「そんな具合で、毎朝、ほんの十数分だけ、私たちは話すようになって、そのうちに連絡先を交換して、遊ぶようになりました」

「その時はまだ俗典舎はなかった?」

「ここの部屋は、物置でしたね。手を入れ始めたのは、遠藤さんと会ってからです」

 物置だって? ここが?

「賀来さんもその頃からの知り合いですよ。あの人は物置を片付けた口です」

「え? でも賀来さんは自分の方が会員番号が若いって言っていたような……」

「たまたま遠藤さんが、海外に短期留学に行っていて、それで、会員証の発行が遅れたんです。だから彼女は、物置を片付ける苦労とは無縁でした。幸運なことに」

 どこか懐かしげなアリスが続ける。

「それでも会員番号を用意していたので、一番が私、二番がアヤメさん、三番がミストさん、四番がエレナちゃん、五番がニコルちゃんで、今のところ、六番から九番は誰もいなくて、賀来さんが十番、遠藤さんは十二番です。十一番の方は、もうお店には来ないですね」

 とんでもないな、というのが第一感だった。

 賀来さんがこの店に過剰なまでに入り浸っているのは知っていたけど、実際的には会員番号は一番なのだ。失礼な表現だけど、あのおっさんは何者なんだ?

「そういうわけで、遠藤さんと私はプレイベートでもお友達です」

「なるほどね」

「遠藤さんも最近、あまり顔を見せませんでしたけど、ちょこちょこ来るようになって、何か心境の変化があったのかなぁ」

 そう言ってアリスがニコルの方を見ると、どうでしょうね、とニコルも考えているようだ。

 僕の中にある俗典舎は、なかなか離れがたくて、できるならここに住みたいと思う場面もあるほど、居心地がいい。

 それでも一度、入っただけで二度と来ない人もいるし、何度も通いつめても最後には去っていった人たちはいるのだ。

 僕もいつか、ここに足を向けなくなるのだろうか。

「冷凍みかん、もう一つ、食べます?」

 アリスにそう言われて、ええ、いただきます、と自然と答えていた。

 アリスが調理室に行って、ニコルはテーブルを磨き始めた。

 こんなに落ち着くのに、ここに来なくなる、か……。

 僕はチャンドラーの「長いお別れ」を本棚に戻し、東野圭吾を探した。

 本棚には、ちゃんと「ゲームの名は誘拐」が差し込まれていた。



(続く)

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