第5話 チャンドラーとルメートルとマクリーン
5-1 チャンドラーに関するジョーク
◆
八月下旬でも今年の夏は異様に暑い。
秋葉原も例外ではなく、アスファルトの上はゆらゆらと空気が揺らめき、靴の底が溶けそうだ。ビルの外壁はギラギラと光を反射している。通りを行く人は日傘を差すか、額の前に手やうちわで庇を作っている。
僕もそんな群れにまぎれていた。その日の僕はケイブックス、ゲーマーズ、アニメイト、らしんばんと歩き回って、唐突に興味がわいたアニソンのCDを探していた。
先月からアニメの第二期が始まって、何も考えずに見始めてみると、これがかなりいい。ガールズバンドが主人公で、その楽曲が子供っぽくて好きになれない、などと評価していたのが、急に百八十度変わったことになる。
今となっては、好きになれない、どころじゃないのが、可笑しい。
それはそうと、その作中作のバンドの一枚目のアルバムを求めているのに、まったく出会えなかった。どうも発売から時間が経ちすぎているし、そもそも売れる見込みがなくて数をプレスしなかった疑いもある。
これではあと五年や十年は、待機かもな。
そんな気の長いことを考えて、僕は俗典舎へ足を向けた。
裏道へ入ったところで、意外な人と遭遇した。短い髪の毛を明るく脱色した女の人。お互いに向かいからやってきたので、避けることはできない。
「あら、十束さん」
ど、どうも、とややまごついて答えるしかない。
そこにいるのは遠藤さんだった。知らん顔をして立ち去るのは無理そうだ。
「お店に行くの?」
何気ない様子で訊ねてくる。
「ええ、そうです。遠藤さんは?」
「一時間後に、青柳くんと待ち合わせ。食事を一緒にするの。あなたもどう?」
ほとんど話したこともない僕を相手に、彼女はフランクだった。
それが逆にドギマギさせる。友達の彼女なのになぁ。
「さすがに二人の邪魔はできませんよ。おとなしく、俗典舎で本を読んでいます」
「じゃ、私も一時間、あそこにいようかな。だめ?」
「ダメなわけないですけど」
そんなやり取りで、結局、二人でエレベータに乗って雑居ビルの一角の喫茶店に向かうのだった。
店頭にいたウエイトレスのニコルがぱちぱちと瞬きする。
「二人だけど、席はある?」
慣れた様子、まるで不自然ではない口調で遠藤さんがそう確認すると、ニコルは気を取り直したようで、「テーブルが空いています」と答えるけど、探るような視線は隠しきれない。
テーブルに荷物を置いて、僕と遠藤さんは本棚の前に行く。
「十束くん、あなたの趣味は?」
「今は、何かなぁ……」
「今は、って、趣味が変わるわけ?」
「コロコロ変わりますね」
僕は本棚から一冊の本を引っ張り出す。レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」だった。旧訳のそれを示しつつ、自分のことを説明するとしよう。
「変にこだわりがあって、この作品も村上春樹訳で「ロング・グッドバイ」を読んだから、全部を村上春樹の訳で読もうと、奮闘していたんです。なので今は、ミステリが好きってことになると思います。それも海外小説の、なるべく新しい」
「チャンドラーは読み切ったわけ?」
「ええ、それはまぁ、つい先日」
ちょっと得意げになりそうで、そんな自分をぐっと自制した。
そんな僕に遠藤さんは首をかしげる。
「一番好きな巻は?」
「「大いなる眠り」ですね」
これはとっておきのジョークで、しかし相手に伝わったことはない。
しかし遠藤さんは僕のジョークを理解する、その最初の一人になった。笑いながら、すごいミステリよね、と言う。
「あの作品の最後のネタばらしは、ほとんど偶然みたいなもので、作者の剛腕といえば豪腕だけど、無理くりな結びで、びっくりしたわよ。でもまぁ、ハードボイルドの空気を味わうには最適かも」
まさしく僕が言いたいことを遠藤さんが口にするので、僕も笑っていた。
「お茶をどうぞ」
ニコルが声をかけてくる。テーブルにティーカップが置かれる。
「遠藤さんのオススメのミステリは?」
「海外で?」
「そうです」
席へ戻るまで、遠藤さんは考え、席について、カップを揺らしつつ、また考えた。
「シリーズで、一巻から読んで欲しいんだけど、「傷だらけのカミーユ」は良かったかな。作者はピエール・ルメートル」
記憶を探ると答えが出てくる。
「「天国でまた会おう」は読みましたね。ミステリじゃなかったですけど、二転三転して、一番最後の展開は、感動したな。あの長編は不思議ですよ。不幸の上に不幸で、不運の上に不運なのに、最後で少し救われる。なんて言えばいいのかな、作者の善意みたいなものが、よく見えた」
「続編は読んでいる?」
「それが、三部作らしいから、三作目が出てから読もうと思っています。耐えきれなくなったら、読むかもしれませんが。「傷だらけのカミーユ」って、どういう感じです?」
そうねぇ、と言いながら、今日のおやつの冷凍みかんが出てきたのを、遠藤さんが素早く皮をむき始める。シンプルで、こういう日もあるのか、と僕は少しみかんを見ていた。
「シリーズは四冊出ていて、そのうちの一つは外伝ね。第一作が「悲しみのイレーヌ」、第二作が「その女、アレックス」、それで第三巻が「傷だらけのカミーユ」。「その女、アレックス」はすごく話題になったけど、本当に知らない?」
「そういえば、店頭で見たかもしれません。買わなかったようです」
「「その女、アレックス」もすごく良いんだけど、シリーズにおけるネタバレを含むのよ。だからね、順番に読んだ方が良い」
そういうことですか、と僕が言うと、あっという間にみかんを平らげ、カップのお茶を飲み干すと、「もう行かなくちゃ」と遠藤さんが席を立った。そう、一時間しか時間はなかったのだ。
「また会いましょうね、十束くん」
「青柳が許すなら、そうします」
「彼は寛容だからね」
ポンと僕の肩を叩いて、彼女はテーブルを離れて、会計をしている。ニコルと何かを話しているようだったけど、ニコルは嬉しそうに笑って、頭を下げて遠藤さんを見送った。
いったい遠藤さんは、どういう人なんだろう?
(続く)
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