4-5 趣味の領域
◆
お盆は地元で過ごし、結局、お土産はドライフルーツの詰め合わせにした。
十五日の花火大会を見てから東京に戻り、この年もコミックマーケットになど行かず、健全に過ごしたことになる。コミケが不健全というわけではない、誤解のないように。
お盆明けの秋葉原はいつもと大差ないが、いよいよ酷暑が人出を鈍らせているのか、少しだけ人気は少ないかもしれない。それでも思ったように進めないほどの混雑だ。
裏道のさらに裏道の雑居ビル、その最上階へエレベーターで上がる。
私設書斎喫茶店である俗典舎のドアを開いて、中を覗くと客は一人しかいない。賀来さんだ。
「いらっしゃいませ」
出てきたのはアリスだ。
「今日は他の人は休み?」
「もう少しすると、エレナちゃんが来ます。ニコルちゃんとミストさんは夏休み」
カウンター席に座る。今日は私服の賀来さんが、どういうわけか、チェ・ゲバラの「革命戦争回顧録」の文庫を読んでいた。
「賀来さんも夏休みですか?」
「毎日が夏休みさ」
「そういう冗談ですか?」
「ご自由に受け取ってくださいな、ってところだな」
この人の正体は全く見えない。
ハーブティーがホットで出てきたけど、ちょうど良い温度だ。香りが立ち上がり、少しだけリラックスした気になる。おやつが来る前に、僕は本棚へ行って、本を物色した。
すぐそばに誰かが来たと思うと、アリスだった。
「サリンジャーは読んだことはありますか?」
「J・D・サリンジャー? そうだね、「ライ麦畑でつかまえて」と「ナイン・ストーリーズ」は読んだ」
「これは?」
本棚から抜き出されて、差し出されたのは真新しい文庫本だった。
J.・D・サリンジャーの「フラニーとズーイ」だった。村上春樹が訳した新訳だ。
「気まぐれで読んだんですけど、いい本ですよ。観念的で、面白いです」
「読んでみるよ」
そう返事をすると、アリスは頷いて、カウンターの向こうへ行き、そのまま調理室に消える。
僕はカウンターの席で、「フラニーとズーイ」を開いた。
少しして、おやつとしてフルーツが出てきた。メロンとオレンジだった。メロンが大きいので、これで五百円とはやはりお得な店だ。
フルーツを食べてから、真剣に読書に打ち込み、気づくとカウンターの向こうにはいつもの黒いワンピースと白いエプロンのエレナが立っている。
時計を見ると、もう十八時になろうとしている。そろそろ閉店だ。
本を戻すつもりになり、栞を挟んで本棚のところへ行った。
その本の存在に気づいたのは、まったくの偶然だった。
本棚にひしめく本の群れの中でそのタイトルは浮かび上がって見えた。
目の前の背表紙には「人魚とビスケット」とあるのだ。反射的にカウンターを振り返っていた。エレナが僕の振り向いた勢いで、驚いてこっちを見ている。
「アリスさんは奥にいる?」
「ええ、はい、呼んできましょうか」
お願いします、というと、エレナが奥に消え、アリスが出てきた。
「棚に「人魚とビスケット」がありますけど」
そのことか、というようにアリスが得意げに頷く。喜色満面っていう奴だ。
「実はお盆に、方々を巡って手に入れたんです。で、お盆に読んで、いい本だったことがよくわかったので、棚に加えました」
「そうやってこの本棚の本は増殖しているわけか」
「私が一応、経営者ですから」
やれやれ。とんでもない女の子もいたものだ。
賀来さんがアリスの向こうにいて、不敵に笑っている。あのおっさんはとっくに知っていたわけだ。
時間ですね、とアリスがピアノに向かい、それから僕を見た。
「何か、リクエストがあれば、弾きますよ」
「え? ピアノで?」
「私はピアノしか弾けませんから」
ああ、そうか、うーん……。
僕は悩んだ後、思い切って言った。
「欅坂46の「危なっかしい計画」とか?」
アリスがぽかんとして、どういう曲? と首を傾げる。
「私、弾けますよ!」
急に声をあげて、エレナがピアノの前に立ち、アリスの横で鍵盤の上をエレナの十本の指が躍動し始める。
それは完璧なピアノアレンジの「危なっかしい計画」だった。
唖然とする僕とアリスの前で弾き終わり、エレナがこちらにお辞儀をする。
「すごい腕前だね」
まだ驚いから立ち直れず、ぼんやりとそう言うしかない僕に、はにかむエレナである。
「趣味で練習しているんです。ジャズはダメですけどね。それはアリスさんの領域です」
アリスが悔しげな顔になり、しかし今はその思いを抑え込んだようで、「ご来店、ありがとうございました」と頭を下げる。その横で、エレナももう一度、頭を下げて「ありがとうございました」とよそ行きの声で言う。
その日はアパートに帰ってから、欅坂46のアルバム「真っ白なものは汚したくなる」を聞きながら、何度もエレナのピアノを思い出した。アリスも相当にうまいと知っていたけど、エレナも趣味の領域じゃない。
みんな何かしらの特技があるし、趣味があるようだ。
僕には胸を張れるのは、読書しかないけど、その読書だって極めているわけじゃない。
世界にはまだ見知らぬ本が、読み解いていない本が、誰かが書いたままになっている本が、無数にある。
僕が見たことも聞いたこともないような本が、それこそ無限にある気がする。
まぁ、趣味なんだから、大きなことは考えないようにしよう。
そう思って、その日は眠りに落ちた。
眠る寸前に、そういえばゼリーは食べてもらえただろうか、ということを考えた。一週間以上前のことで、すっかり忘れていた。
別に恩を売りたいわけじゃないから、いいんだけど。
今度こそ眠りの暗闇に視界が閉ざされ、真夏の熱気も遠ざかった気がした。
(第4話 了)
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