4-3 女性にまつわるエトセトラ
◆
八月もあっという間にお盆になる、という現実をどうにか無視するように、僕は秋葉原に通い詰めた。こうなっては秋葉原でアルバイトでもすればいいようなものだけど、なかなか勤労意欲もわかない。
親からの仕送りが潤沢なわけでもなく、僕の生活費の配分は、極端だった。
一番激しく切り詰められているのは、食費だ。事故米なんじゃないかと思うほど安い米を十キロで買い、肉は滅多に買わない。せいぜい、ウインナーかベーコン程度だ。
何よりも大きいのは、サークル活動の後に他の面々は食事に行くのに、僕は全く付き合わないこと。だってラーメン一杯で八百円とか、それだけあれば本を一冊買える。たまにある飲み会にも足を向けないほど、僕の緊縮財政は厳格だった。
もちろん、まだ未成年なので、アルコールを買うこともないので、それは自然と良い作用を生んだ。まぁ、成人になっても、アルコールを飲んでふわふわするのか知らないけど、本を読めないようでは、薬ではなく毒だ。
逆に、そんな食費の極端な削減の反動のように、本を買うお金だけは潤沢にある。
月に文庫本を二冊は買うし、好きな作家のハードカバーも押さえる。
そもそも、毎日と言っても過言じゃないほど、閉店時間が二十三時の書店に二十一時過ぎに繰り出し、人気のない店内をうろついているのだ。自然と欲しい本も増えるというものだった。
何はともあれ、俗典舎での出費も小さくはないけど、あそこは特別、と言い聞かせて、秋葉原へ行っていた。
その日も雑居ビルに向かっていたのだけど、前方に見知った背中がある。あるが、それだけで済まなかった。
そこにいるのは間違いなく青柳で、しかし女の子と手をつないで歩いていた。
おいおい、なんだそれは、ここは秋葉原だぞ、いや違う、秋葉原でもカップルはいる、最近は特に増えた、いやいや、そうじゃなくて……。
青柳に恋人がいるとは。
まったく知らなかった。
立ち尽くすわけにもいかず、歩きながら呼吸を整え、青柳と正体不明の女性の背中がよそへ消えてから、平常心で俗典舎に入った。
ちょうど客がいないテーブルがある。カウンターには二人がいて、ひとり客らしい。珍しく賀来さんはいない。
「いらっしゃいませ」
ニコルが嬉しそうに笑いながら、席へ案内し、アイスティーを出してくれる。グラスに水滴が数に浮かび上がった。今日のおやつはマンゴープリンだった。
本棚へ行き、少し考えてヘミングウェイの「老人と海」の文庫本を手に、席に戻る。
そう、どんな大きな獲物を仕留めても、最後には何も残らないことを、この本は教えてくれる。教えてくれているはずだ。
青柳も女の子と今、仲良くしても、いずれ失うだろう。
何か違う気もするが……。自分の発想が。
そのうちにカウンターの客が一人ずつ去っていき、店内には僕とニコルだけになった。そのニコルが近づいてくる。
「お店の外で、青柳さんと会いませんでしたか?」
半ば呆然として、呻くように、ああ、と答えるしかない。
最悪の可能性がどうやら現実になったらしい。青柳がこの店に、女の子と二人連れでやってきたのだ。そうか、だからテーブル席が空いていたんだ。ここには、青柳と、名前も知らない女の子がいたってことか。
途端に虚しくなる僕に、ニコルが小声で言う。
「結構な美人さんですよ、大学の同級生らしいです」
「へえ」
ギクシャクとしている僕に驚いたらしく、大丈夫ですよ、とニコルが小さいながら力強い声で励ましてくれる。
「きっと十束さんにもいい人ができますって! 落ち込まないで!」
ぐっと拳を握って見せられても、やはり虚しい。
しばらく「老人と海」を読みながら、大きな獲物も何も、僕こそが老人のような気がして、そっと本を閉じた。
「いつの間に来ていたんですが、十束さん」
声の方を見ると、アリスが調理室から出てきた。手に皿を持っている。
「これ、試作品です。味見してください」
赤いゼリーで、スプーンですくってみるとスイカのゼリーだとわかった。しかも少し凍らしてあって、シャリシャリしている食感が心地いい。
少しだけ心が晴れた。
「美味しいと思う」
「ありがとうございます」
アリスが微笑む横で、ニコルがそっぽを向いている。何が不満なんだ?
それからアリスはスイカゼリーの作り方を教えてくれたけど、僕には再現できそうになかった。ニコルがそっとアイスティーのグラスを交換してくれる。礼を言うと、笑顔が返ってくる。どうやら機嫌は直ったらしい。
ちょっとだけ語気を強めて、アリスが説明を続けたが、そこへニコルが「時間ですよ、アリスさん」と声をかける。確かに時間は十八時を過ぎている。読書に熱中していていつの間にかこんな時間だ。
しかし非常に示唆に富んだ、貴重な時間だったな。他では味わえないだろう。
アリスがピアノに向かい、何かを弾き始める。やけに激しい曲だった。ジャズだと思うけど、少しロックだな。まぁ、そのジャズの曲が生まれた時には、ロックがなかった可能性もある。
ニコルに見送られて、僕は俗典舎を出た。
秋葉原は夜になっても賑やかだ。若者たちの熱気、趣味に向けられる熱い視線が、空気を燃え上がらせるようだ。数年前から打ち水をする企画もあるけど、このオタクたちの情熱には、水程度では対応不可能だ。
秋葉原駅で、念入りにホームを見渡してみたけど、青柳の姿はなかった。
もし青柳がいれば、問い詰めてやっても良かったのに。
こうしてその日はもう何事もなく、僕はアパートへ戻り、放り出していた買ったばかりの「世界終末戦争」の続きを読み始めた。
それにしても、本一冊で三千円だの四千円だのは、肝が冷える。
本気で読むことにしよう。
(続く)
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