4-2 本好きたちの奇跡と神秘

     ◆


 結局、僕が初めて行くブックオフにもアリスの目当ての本はなかった。

 アリスが収穫なしなのに、僕は火坂雅志の「真田三代」の文庫本を上下巻で手に入れた

「良いですねぇ、本があって」

 恨めしげにアリスがそう言ったのが、駅の方へ戻り、西口のブックオフでも空振りになった後のことだ。

「どこかで休んで帰るとしようか」

 実際、僕は読みたい本が手元に揃って、ウキウキしていた。だからアリスが警戒する表情になって、誤解されたことに気づいた。

「喫茶店にでも入ろうってこと。いかがわしい意味ではない」

「同人誌愛好者の言葉は、にわかには信じられません」

 まったく、こういうことになるから、困るんだ。

「喫茶店というか、時刻的には夕飯時だから、中村屋にでも行こうか。あそこのカレーは美味しい」

「あ、十束さん、今、都合よく話をそらしましたね」

「行こう行こう、さ、早く」

 むー、などと言っているアリスを連れて、僕たちは新宿駅を回り込む流れで、新宿の街を横切ったのだが、ディスクユニオンの前で、「ちょっと寄り道します」とアリスが足を止めた。

「ブックユニオンに行きたいんです」

「ブックユニオンね、良いよ。何を買うの?」

「ずっと「渋松対談」を探していて」

 また桜庭一樹か、と指摘したかったけど、我慢しておく。ここで下手に口出しすると、ひどいしっぺ返しを受けそうだ。

 以前のブックユニオンは新宿のまさに紀伊國屋書店新宿本店の隣のビルにあったのだけど、あのビルは取り壊されてしまった。代わりにディスクユニオンの新しい店舗に組み込まれている。

 あの古い店舗はものすごく手狭で、逆にそれが良かったんだけど。

 ブックユニオンでもアリスの目当ての本は見つからなかった。そういう日もあるよ、と慰めるしかないけど、こちらが欲しい本を山ほど持っているとなれば、不服だろう。

 二人で今度こそ中村屋のレストランに移動して、インドカリーを注文する。

「桜庭一樹オタクとしては、面影屋珈琲店は外せないよね」

 こちらから話題を振ってみると、「三回くらい行きました。カレーを食べに」という返事だった。

「でも今はないんでしょ?」

「名前が変わってしまって、私もそれからは行っていません。変わっちゃった、ということを意識したくなくて」

 そんなことを言う彼女に、冗談としての切り札を切ってみる。

「妹と一緒に行ったんだけど、入ったところでウエイトレスが出迎えてくれたけどさ、黒のロングスカートに白いエプロンドレスを着ててね、妹がメイド喫茶に連れ込まれた、と思ったようだった。店内に入れば、モダンというコンセプトだって理解したようだけど」

「私は特に何も感じませんでしたけど」

「そこはさすがに喫茶店経営者だね」

 そんな会話をしているうちに、インドカリーがやってきた。ゴロゴロっと肉が入っているんだけど骨が付いていて、これを綺麗に食べるのが難しいのを忘れていた。女性の前でみっともない姿は晒したくない。

 噂になるかもしれないし。

 さりげなく注意して、食べ進める。一方のアリスは全く余裕で、美しく食べていく。見習うとしよう。

「絶版本の思い出ってありますか?」

 食事の途中で、ラッシーを飲みながらアリスが質問してくる。

「絶版本は、まさに桜庭一樹の読書日記で知った本だけど、ゴーギャンの「ノアノア」は、いつの間にか復刊されて、いつの間にか絶版になって、それでもどうにか新品が手に入った」

「ネットで?」

「違うよ、紀伊國屋の、高島屋の方にまだ店舗があった時に、そこで。運良く、最後の一冊が店頭にあったんだ」

 へえぇ、とアリスが表情の変化で驚いていることを目一杯、表現する。

 それがどこか可笑しい。

「狙って行ったんだよ。ネットで在庫を調べてね。でも実際に店頭に行って棚を見ても、見当たらなくて、ほとんど投げやりで店員に調べてもらった。だいぶレジ前で待たされて、これは誰かが買っちゃって、もうないのかも、と思った。五分以上待って、店員が戻ってくると、手に本を持っている。こうして、「ノアノア」の最後の一冊は僕のところへ来た」

「いい話じゃないですか」

 ……いい話か? まぁ、本好きには神秘的なエピソードではある。

「桜庭一樹の読書日記でも、「ノアノア」、「月と六ペンス」、「楽園への道」の三冊の部分は、なんとも言えないですよね」

 アリスの言葉に、まさにまさに、と僕は頷き返す。

 三冊は同じ人物が関係している。「ノアノア」はゴーギャンがタヒチでの生活を書いた日記であり、サマセット・モームの「月と六ペンス」の主人公である画家のストリックランドは、ゴーギャンがモデルだ。そしてバルガス・リョサの「楽園への道」はダブル主人公の長編小説で、主人公の片方がゴーギャン、片方はゴーギャンの祖母だ。

「三つを全部押さえたくなるのが、人情だよね」

 そういう僕に、アリスが嬉しそうに笑う。

 それから食事をしながら、バルガス・リョサの作品の話題になり、でも僕は「緑の家」しか他には読んでいない。アリスは「世界終末戦争」が面白い、と言っていた。ものすごく長いけど、と付け加えて。

 そうか、「世界終末戦争」か、頭にメモしておこう。

 どうにかこうにか無難にインドカリーを食べ終わり、僕たちは店を出た。二人とも同じものを頼んだので、自然な流れで割り勘になった。まぁ、恋人でもないし、ちょっと親しい知り合いと考えれば、このくらいのことは許されるだろう。

 本当の男はこういう場面でも甲斐性を発揮するかもしれないけど。

「今日はありがとうございました。またお店で」

 アリスが別れ際にそんなことを言った。

「じゃ、また」

 二人で手を振って、僕たちは新宿の地下通路で別れたのだった。



(続く)

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