第4話 スコットとヘミングウェイとサリンジャー

4-1 雑踏と地下迷宮と出店

     ◆


 八月になって一週間も経たずに、僕は趣味で聞いているラジオの公開録音のために、週末に大宮まで足を伸ばしていた。

 公開録音自体は、比較的面白かったけれど、僕が送ったメールが読まれなかったのは残念だった。ラジオの公開録音自体はもう四回目で、すでに、目の前でパーソナリティーが僕のメールを読む場面は経験している。

 それがまたなんとも恥ずかしく、引っ込み思案な自分がにわかに蘇る。

 何はともあれ、夕方の早い時間に新宿まで戻ることができた。さすがに今から俗典舎へ行くのも時間が足りないし、紀伊國屋書店か、ディスクユニオンを見ようかと、改札を抜けた。

 そこへ目の前の人の流れに混ざって、見知った顔があった。

 素早く流れに乗って歩み寄り、肩を叩く。彼女はギョッとして、振り返る。

「十束さん!」

「こんにちは、アリスさん」

 そこにはいつもの黒いワンピースと白いエピソードではなく、まったくの私服のアリスの姿があった。手には小さなトートバックを提げている。

「こんなところで何をしているんですか?」

「ちょっと本を探していて」

 そんな返事があった。

 方向からすると、アルタの前に上がっていくのだろうか。それならそこから紀伊國屋書店かもしれないが、僕は未だに新宿の地下迷宮を正確には知らない。

「絶版の本なんです」

 そうアリスが言ったので、紀伊國屋書店の可能性はほとんどないとわかった。では、どこだろう?

「一緒に来ますか?」

 何気ない様子で誘われたので、「お言葉に甘えて」などとキザな言葉を返していた。

 二人で並んで歩いて、どこへ行くのかと思うと、地下街や地下通路をうねうねと巡っていく。新宿が好きな街でも、そこは地元民ではないので、あっという間に自分がどこにいるのかわからなくなった。

「どんな本を探しているんですか?」

 こちらから質問すると、アリスの唇が弧を描く。

「そんなにかしこまらなくていいですよ。エレナちゃんにはもっと砕けているでしょ? あと、ニコルにも」

「ああ、まぁ、そうですけど」

「じゃ、もっとお友達感覚でいきましょう。ここはお店じゃないですし」

 了解です、と応じると、何度かアリスが頷く。

「それで、何の本?」

 聞き直すと、それはですね、とアリスが歩きながら答える。

「J・M・スコットの「人魚とビスケット」です」

 ああ、あの小説か。

 そんなことを思った僕の方を、勢いよくアリスが振り仰ぐ。彼女と僕ではやや身長差があるのだ。頭一つくらい差があるかもしれない。

 その下に見える顔に、好奇心とかすかな興奮が今は同居していた。

「もしかして持ってますか?」

「持っていると思うけど、手元にはない。実家にあるんだ」

「どこで買ったんですか? そもそもどこで知りました?」

 記憶を探るのに、だいぶ苦労した。

「最初に知ったのは、桜庭一樹の読書日記のシリーズだよ。面白そうで、そのエッセイ本で出版社とかをスマホにメモして探して。それで、うーん、たぶん地元の古本屋を当たったけど、ダメだった。しばらく探して、結局は、ブックオフで見つけたかな」

「それはすごいです! 運命的ですね!」

 本好きはすぐにこういう出会いを運命と感じる気もするけど、僕もおおよそその意見に反対ではない。ブックオフの店頭で、棚に「人魚とビスケット」というタイトルを見つけた時、奇跡だ、と思ったのは間違いないのだ。

「ネットで買えばいいんじゃないの?」

「どういう状態か、よくわからないんじゃあ手元に置きたくないですよ」

「なるほど、一理ある」

 そのまま二人で歩いて行くけど、僕はどこにいるんだろう?

 と、目の前に地下通路の交差点が現れ、何かの店が展開されている。よく見ると「古本」というのぼりがある。

「へぇ、これが目的ってこと?」

「三ヶ月に一回くらい、ここに出店するんです。もう数えきれないほど来ています」

 二人で自然とそれぞれにワゴンの中身を見ていく。小説が多い。比較的新しいものが多そうだ。じっくりと見ていくと、こういうワゴンでは店主の好みが現れて、面白いものだ。

 僕の地元でも年に二回、古本屋が集まるイベントがあって、それでもほんの五、六軒だけが集まる小さなイベントだけど、それぞれの店の方針とか、好みとか、ジャンルとか、そういうものがわかって楽しかった。

 ワゴンの中に高山なおみの「日々ごはん」という日記をまとめたシリーズが急に一冊だけ見つかり、思わず声が漏れてしまった。このシリーズはまさに地元の古本市で飛び飛びに手に入れたのだ。

 ワゴンにあるのは二巻のようだ。まぁ、一巻じゃないのが不服だが、押さえるとしよう。

 ワゴンから引き抜き、そのまま数台のワゴンを行ったり来たりして、津原泰水の「蘆屋家の崩壊」の文庫本が見つかった。これも意外に読んでいなかった。ちなみに「アッシャー家の崩壊」を読んだこともない。

 ワゴンの間にある折りたたみ椅子に座る店主のところで会計し、剛の者らしい店主には本を袋に入れてもらうこともできず、少し離れた場所でアリスを待った。彼女はじっくりとワゴンを吟味し、そして会計をしてこちらへやってきた。

「掘り出し物があったみたいですね」

 そう言って近づいてきたアリスと、本の情報を交換する。

 アリスが持っている本は、須賀敦子の「コルシア書店の仲間たち」だった。

「実は桜庭一樹オタクなの?」

 こちらから切り込んでいくと、照れたような表情で、そうです、とアリスが答えた。

「たまたま知って、さっき、十束さんが話していた読書日記にはまってしまって」

「あれはいい本だよね」

 そうなんです、と幸せそうな顔になるアリスである。

 僕も桜庭一樹の読書日記での紹介によって、須賀敦子にたどり着いた口だ。全集が文庫化されていて、それを三冊くらい、読んだ。なかなか面白い、読ませるエッセイを書く人だ。

「でも「人魚とビスケット」はなかったわけだ」

 僕に少しキリッとした様子で、アリスが頷く。

「ブックオフに行ってみます。ここから近い店舗があったはずです」

「え? そうなの?」

 案内します、とアリスは僕を先導し始めた。



(続く)

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