3-5 奥の手
◆
八月に入ると、都心はどこでも人で溢れる。学生がみんな休みだからだろう。
僕は朝早くに起きると身支度を整え、昼前には新宿にいる。
これはどういう関連なのかわからないけど、僕の中では新宿はものすごく落ち着く街だ。といっても、行くところは限られている。紀伊國屋書店新宿本店、駅にルミネの上にあるタワーレコード、西口のブックオフ、いくつかのディスクユニオン、そんなところだ。
よくよく記憶を辿ると、どうも子どもの時から紀伊國屋書店の紙のカバーが好きで、それで自然と新宿が好きになったかもしれない。
中村屋の新しいビルを横目に駅へ戻る。地下へ下りる階段のところで、すぐ脇のビッグカメラから出てきたのは青柳だった。
「おう、十束、久しぶり」
「久しぶりって、つい三日前に俗典舎ですれ違ったよね」
「ああ、そうだった」
三日前の昼過ぎ、僕が俗典舎に入ろうとした時、中から青柳が出てきたのだ。
「だいぶ馴染んで、楽しそうだな。あそこは読書家にはたまらんからな」
そんなことを言う青柳と並んで階段を降り、新宿駅の東口へ向かう。
「あまり僕のことを彼女たちに言うなよ」
「同人誌のことか? 別に恥ずかしがることもないと思うけど。十八歳なんてとっくに通り過ぎているし」
「まぁ、それはそうだけどね。でも僕はあまり十八禁の同人誌は好きじゃないよ」
「そう彼女たちにも言えばいいじゃないか」
実際、僕が同人誌に興味を持ったのは、ライトノベルの装丁に使われるようなイラストを描く、イラストレーターのサークルに興味があったからだ。
「世間のイメージがあるからなぁ」
自動改札を抜けて、二人で中央線のホームへ移動する。
「秋葉原へ行くんだろ? それとも別か?」
「そう、僕はまた俗典舎だよ。青柳は?」
「俺は御茶ノ水で降りる」
「へぇ。古本を当たるの?」
そんなところ、というのが青柳の答えだった。
二人で並んで電車のつり革を掴み、最近の読書事情について話す。僕はエレナの影響で、ライトノベルをどうにか安価で手に入れて、読み漁っている時だった。
「青柳は何が懐かしい?」
「そりゃ、吉田直の「トリニティ・ブラッド」だな。未完だけど、作者が亡くなっちゃったらどうしようもない。十束は?」
僕の頭の中で、「トリニティ・ブラッド」と同時に浮かび上がった作品があった。
「三雲岳斗の「ランブルフィッシュ」だ。そうか、ずっと忘れていた」
電車が御茶ノ水のホームに滑り込む。二人で電車を降りて、またな、と青柳はホームを去っていく。その背中を見送っていると、総武線の電車が走ってくる。
黄色い電車に乗り込む時、ホームをもう一度見ると、青柳のすぐ横に女の人が立っていた。まるで寄り添うように立っている。何かの勘違いか?
電車に乗らないわけにいかないので、視線を外して僕は総武線に乗り換え、すぐにホームは見えなくなった。青柳が女性を連れていることがあるか、という議題を脳内で検討しつつ、秋葉原で下車した。
すでに時間は十二時を回っている。食事に何を選ぶか考えて、肉の万世に向かった。カツサンドで済ませよう。
一階のカウンターで買い、歩きながら箱を開ける。これが意外にボリュームがあって美味い。
歩きながら俗典舎にたどり着くまでにカツサンドは食べ終わり、ビニール袋に折りたたんだ箱を突っ込み、それをさらに鞄に押し込んだ。
エレベータで雑居ビルの最上階へ上がる。通路の先の看板を横目にドアを開けて、いつもの流儀で客の数を確認する。夏休みでもここは人気も少なく、カウンターの席には賀来さんがいて、テーブルの一つを二人の男の人が向かい合って使っている。
「いらっしゃいませ」
今日はニコルに出迎えられて、僕はカウンターの席に着いた。
「学生はいいな、夏休みで」
賀来さんがすぐにそんなことを言うけれど、彼は年がら年中、暇をしているように見える。不思議な人物である。
「アルバイトでもしないのかね?」
「気ままに過ごしますよ」
「実家には帰らないの?」
「あそこは言ってみれば、タトゥイーンですね」
気の利いた返事だよ、と賀来さんが笑う。元ネタは「スターウォーズ」だけど、このネタは僕の大学のサークルでも通用する。二十年前にはマニアックなオタクしか知らないはずが、新作が公開されて、またタトゥイーンの辺境っぷりが明確になったからだろう。
レモンティーが出てきて、今日のおやつはババロアだった。
本棚の方へ行って、大量の蔵書の列を眺めていく。
その中にはライトノベルがだいぶ紛れていて、その中には三雲岳斗の作品が無数にあると気づいた。「アスラクライン」、「レベリオン」、「i.d.」、そんなところがすぐに目につく。
しかし「ランブルフィッシュ」はなかった。
「何かお探しですか?」
僕が長い間、本棚を探っていたせいだろう、ニコルがやってきた。
「三雲岳斗の「ランブルフィッシュ」はないのかな」
そう投げかけてみると、ニコルが目をまん丸くした。
「よくそんな懐かしいタイトルを知っていますね」
「ニコルさんも知っているようだけど?」
「エレナさんから聞いているからですよ。だいぶオススメされました」
まったくの初耳だった。
「読んだ?」
「ネット通販で中古で揃えましたよ。意外に値段が高かったけれど、いい作品でした」
ニコニコと黒髪のウエイトレスは楽しそうだ。
「そう、いい作品なんだけど、ここには置いてないわけ?」
ニコルの表情に、ちょっといたずらっぽい色が浮かぶ。
「「ランブルフィッシュ」はエレナさんの奥の手なんです。本当に好きな人だけに通じる暗号みたいな」
どう答えていいかわからない僕に、ニコルが微笑む。
「十束さんって、本当になんでも知っていますね」
ここで西尾維新の作品の台詞を引用するのは、あまりにもひどいので遠慮しておいた。
その代わり、オリジナルのジョークで返しておく。
「現実のジェイムズ・ハリデー、ってことかもね」
ネタが分かったのか、、ニコルは笑っていた。やや失笑だったけど。
とにかく、何かの時に、エレナに「ランブルフィッシュ」のことは話すとしよう。
きっと、盛り上がるはずだ。
(第3話 了)
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