3-3 噂の行き交う席

     ◆


 七月の中旬から僕はレポート書きに忙しく、俗典舎から足が遠のいた。

 そんな具合で、次に秋葉原へ行ったのは最後の試験が終わった翌日で、金曜日だった。この日からめでたく、二ヶ月に及ぶ夏休みの始まりだ。

「いらっしゃいませ」

 珍しく店頭にはアリスがいた。

 この女の子は、大抵の時間を調理室で過ごすからか、あまり接客には出てこない。

 今日は彼女の他には誰もいないようだ。

「一人ですか?」

 こちらからそう訊ねると、アリスは微笑んでいる。

「平日ですしね。他のメンバーはお休みです」

「大変ですね、アリスさんも」

「これでももう夏休みの身ですから」

 まじまじと彼女を見てしまうけど、どこ吹く風でカウンターに案内してくれた。

 今日はどういうわけか、賀来さんが既に席にいるのは同じでも、珍しく何かのマンガを読んでいる。

 アイスティーが出てきて、おやつは寒天だった。三色が層になっている。涼しげでいいじゃないか。

「エレナちゃんが喜んでいましたよ」

 カウンターに身を乗り出すようにして、アリスがそんなことを言う。

「え? 何にですか?」

「漫画好きの話し相手ができた、って言っていました。十束さんのことです」

「そうですか。うーん、あまり僕も詳しくはないんですが、勉強しなくちゃ」

「頑張ってください」

 そんな言葉と一緒に、微笑みが投げかけられた。

「このお店の蔵書に漫画があるのは、エレナさんの趣味ですか?」

 紅茶をストローで吸いながら訊ねると、アリスはニコニコと笑っている。

「一部はそうですね。でも半分くらいは元からありました」

「元から?」

「私の家にあった本です」

 私の家?

 どういう事情があるか、瞬間的に考え、想像し、否定し、疑い、また考えた。

「本屋だったとか?」

 あまりも突拍子もないことを自分が口にしていて、急に恥ずかしくなった。

「そんなわけないですよ」

 アリスが口元を手で隠す。

「ただの読書家の家族だっただけです。家に置いておけないものとか、二冊とか三冊あるものをこの店に置いているんです。それだけですよ」

 二冊や三冊買う、というところに変に共感があり、ああ、と受け入れてしまう僕である。

「本好きの業だな」

 と、賀来さんが呟く。まったくだと思って、僕は頷くしかない。

「アリスさんが経営者って本当ですか?」

 話の流れで質問できそうだったので、さりげなく質問してみた。

「私、これでも短大生ですよ?」

 茶目っ気たっぷりな顔でそう言われて、僕はもう一度、混乱した。

「短大生? 本当に?」

「そうです。だから、本業が学生で、副業がこの店になります」

 賀来さんが手元の本を机に伏せる。

「摂政がいるんだよね、アリス」

 そう言われたアリスが、摂政って、と笑う。

「実際には私の親なんですから、摂政でもなんでもないじゃないですか。あまり、適当なことは言わないでくださいよ、賀来さんも」

「金持ちの考えることは、私のような平凡な人間にはわからんよ」

「賀来さんだってお金持ちじゃないですか。本を買わなければ、ですけど」

「金は使ってなんぼだ。死んでしまえば金なんて持っていけないしな」

 そんな常連と店主のやり取りを聞きながら、僕はあまりの情報量の多さに思考がパンクしていた。

 金持ち? つまりこの店はアリスの両親が出資者になっている店で、アリスに任されている?

 賀来さんも金持ちだって? この冴えない、職業も年齢も不詳の男性が、この店に入り浸っている男性が、金持ち?

 この二人はいったい、どういう関係なんだろう?

「個人情報はちゃんと胸の内にしまってくださいね、賀来さん」

 その言葉だけでアリスは常連客を黙らせて、その常連客も「客の噂話は禁止だよ」と、意味のわからない釘を刺している。

 アリスがこちらに向き直る。

「何にせよ、この店は私がコンセプトを決めて、ウエイトレスを選びましたから、エレナちゃんの趣味も知っているわけです。でもなかなか、彼女が生きるお客さんが来なくて、その点では、私も十束さんを歓迎しているんです」

 客は話し相手か、と賀来さんがくすくすと笑う。僕も笑うしかなかった。

「エレナさんって、もしかして漫画が好きすぎて、金髪にしているのかな」

 そこまでエレナのことに踏み込むのも変かなと思っている僕の内心に気づいてか、アリスは「本人に聞いてあげてください」と、さりげなく避けてくれた。確かに本人に聞くべきだろう。

 次にエレナがお店に出る日を聞いて、賀来さんは「お友達ごっこの場所じゃないはずだけどねぇ」と呟いている。

「そういう賀来さんもアヤメさんとだいぶ仲良くなったじゃないですか」

「懐かしい話だね」

 僕の知らない名前を口にするアリスに、賀来さんはどこか寂しげな雰囲気で笑い、それを隠すように寒天を口に放り込み始める。

 アヤメというのは誰のことだろう。僕は会ったことがないから、今はもう仕事を辞めている、以前に在籍したウエイトレスだろうか。

 アリスはそれから賀来さんと寒天の固さの具合や、味に関する話をしていて、こうなると喫茶店の店主と常連客のようだ。

 僕は本棚の方へ行き、漫画とライトノベルのラインナップを眺めた。そうしてじっくり見ると、どこかにエレナの趣味のようなものは見える。エレナのリクエストで、アリスが揃えたのかな。

 僕も懐かしいと感じるタイトルがいくつもある。

 今まで考えたこともなかったけど、エレナも、ニコルも、ミストも、そしてアリスも、僕とそれほど年の差はない。みんな同じ時代を、同じような時間、生きていることになる。

 それ以上のつながりがあるような気がして、変に感慨深い僕である。



(続く)

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