3-2 深い領域
◆
七月になり、まだ雨が降りしきっている。
大学がそろそろ前期末で、試験やレポートで忙しい。それでも合間を縫うように、俗典舎に通っていた。ちなみに俗典舎は店内でパソコンを使ってはいけない、という決まりがある。キーボードを叩く音が他のお客の迷惑になる、ということだった。
僕は気分転換に漫画を読んでいた。
内藤泰弘の「トライガン」から「トライガン・マキシマム」へと進んでいて、今、主人公が敵に体の自由を奪われて捕まっているところで、すでに何度も読んでいるので、ここからがいよいよ見せ場の連続になるのを、知っている。
「初めてですか?」
すっとエレナが顔を寄せてくる。今日の店頭にはエレナがいて、奥にはアリスがいるようだった。そのエレナの表情は、嬉しそうな笑顔だ。
「何度も読んでいるね。たまたま連載の時から知っていてね」
「十束さん、って、いったい何歳なんですか?」
「十九だよ。ちなみに「トライガン・マキシマム」は、小学生の時に一番最後の方をチラッと見て、それで知った。アメコミみたいで、新鮮だったな」
「内藤泰弘は確かに、独特ですね」
すっとエレナがお茶のお代わりを注いでくれる。今日はアイスティーで、少しハーブの匂いがする。何のハーブなのか、寡聞にして知らない。
「「トライガン」と「トライガン・マキシマム」ってつながったお話ですけど、何でタイトルを変えたんでしょうね」
素朴なエレナの疑問には、曖昧な記憶ながら、答えられる。
「たぶん、掲載誌が変わったんじゃないかな。そんなのをどこかで聞いた気がする。でも、どちらもYKコミックスだから、実際はわからないな。それこそ、本当のリアルタイムの世代じゃないから」
うーん、とエレナが指を顎に当てる。
「掲載誌が変わったといえば、羽海野チカの「はちみつとクローバー」も転々としていた気がします」
「ああ、そんなことが最後のあとがきみたいなページにあったよね。でもあの作品は、すごくいい。編集者も悩ましいだろうけど、最後まで描いたのは、正解だと思う」
「「はちみつとクローバー」こそ、最後のひねりがすごいですよ。あれは私には全く想像できませんでした。あれだけ激しく動かして、でも本当の最後には、みんながみんな、ストンと落ちるところに落ちて、良いですよね」
「主人公が電車の中で泣くのには、こっちも泣きそうになるよ」
本当に、と答えるエレナの目が潤んでいた。感じ易い子なのだ。
「同じ時期だと、高屋奈月の「フルーツバスケット」がありましたよねぇ」
しみじみとエレナが頷く。
「あの時は、少女漫画はすごかったかもね。種村有菜がでたらめに作品を出しまくって、すごかったんじゃない? 「神風怪盗ジャンヌ」とか「満月をさがして」とか」
「十束さん、どうして詳しいんです?」
「妹の買っていたマンガを勝手に読んだからね」
途端にじとっとした視線を向けられるので、僕はさりげなく今日のおやつに視線を向けた。紅茶のマフィンだ。
「僕のマンガを妹が勝手に読むことも多々あったけどね」
言い訳のようにそう言うと、羨ましいです、とエレナは少し視点を変えたようだった。その方が僕は助かる。
「男女に好かれる漫画って、大抵が少年漫画ですけど、十束さんのオススメはありますか?」
答えづらいけど、思い浮かぶタイトルは幾つかある。
その中でも一番、過激なものをあげることにした。
「川田の「火ノ丸相撲」だね」
ピタリと動きを止めて、エレナがこちらを見る。
「アニメ化されたのは知っていますけど、どういう趣味ですか?」
「これでも実は、大相撲オタクなんだよ」
言い訳がましいと思いながら正直に白状するしかない。
「中学生の時から、もう七、八年は追いかけているんだよ。ちゃんとテレビ中継を録画してチェックしてね」
「相撲好きだから「火ノ丸相撲」なんですか?」
「うーん、ちょっと違うかな。あの漫画は、実在の力士とか技とかを知っていると、より深く楽しめるなんだよね」
どういうことですか? とエレナが首を傾げるので、ちょっと説明する気になった。たとえ伝わらなくても。
「現実の横綱でね、初代若乃花という人は、呼び戻し、仏壇返しという技が得意でね。で、漫画の中では、横綱の息子という天才が、呼び戻しを使うんだ。若乃花とそのキャラクターは体格も違うんだけど、でも、大横綱という点で共鳴して、オタク心をくすぐる、ってこと。わかる?」
「……まったく、わからないです」
だよねぇ……。
「やっぱり別の漫画にしよう。ちょっと穏当なところへ行くと、藤田和日郎の「からくりサーカス」は好きだけど、ちょっと女子には入りづらいかなぁ」
「ああ、それなら私も読みました。マリオネットのデザインがいいですし、中盤の真夜中のサーカス編は背筋が震える、っていう感じ。でもやっぱり、女の子は少し入りづらいかなぁ」
そうなれば、と僕は言葉が自然と口から出た。
「久保帯人の「BLEACH」に辿り着きそうだけど」
パッとエレナの顔が明るくなる。
「そういうことなんですよ、十束さん!」
「え? 何? どういうこと?」
「イケメン、ってことです! 許斐剛の「テニスの王子様」とか!」
ああ、なるほどね……。
「男はバトルに興奮し、女はイケメンの様子に感動する、それが男女に好かれる条件です!」
参りました、と僕はバンザイしてみせる。
それからエレナが「BLEACH」と「テニスの王子様」のキャラクター造形の良さについて語り始め、それは新しい客がやってくるまで続いた。
彼女が接客するすぐ横で、賀来さんが僕の耳元で呟く。
「彼女はいったい、何歳なんだ?」
僕は肩をすくめるしかない。
「僕に聞かないでくださいよ。気になるなら、本人に聞いてください」
「そいつはセクハラ案件だ」
「なら僕だって質問できません」
「君たち、友達になりなさい」
思わず笑うしかなかった。
なんとなく、俗典舎のウエイトレスたちとは、一線を引くのが自然だと思っていたからだ。
彼女にはその気があると思うが、と、物騒なことを言いながら賀来さんが紅茶をストローで吸い上げた。
(続く)
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