第3話 大暮維人と平野耕太と賀東招二と三雲岳斗
3-1 古今の漫画
◆
六月も下旬になると、梅雨入りして雨の日が増えた。
それでも俗典舎は変わらずに営業していて、その日も僕は昼過ぎから顔を出した。
「「頭文字D」だね」
氷を入れたグラスにレモンティーを注いで出してくれたエレナにそう声をかけると、エレナが微笑む。
「しげの秀一は「MFゴースト」から入ったんですけど、これは「頭文字D」を読まなくちゃわからないな、と思いまして」
「僕は地方出身だから、あの作品のイメージは湧きやすいよ」
そうなんですか? とエレナが首を傾げる。
「実際に走っているところは見たことないけど、山の方へ行く道のアスファルトに、タイヤの痕跡がすごいんだよ。あれは走り屋の痕跡じゃないかな」
「公道でレースなんて、創作の中だけかと思いました」
「それはその通りなんだけど、ど田舎の山道なんて、深夜にでもなれば誰も来ないんだよね」
「すごい世界ですねぇ」
エレナは感心した様子で言いながら、おやつとして羊羹を出してくれる。レモンティーに羊羹とは、すごい店だ。でもどちらも美味しい。
「前に漫画の話を聞いたけど、何が好きなの?」
カウンターの向こうで読みさしの「頭文字D」のコミックを取り上げようとしたエレナに声をかけてみた。彼女は本を置いて、カウンターを挟んでも僕の向かいに来る。
「少し前の作品で、申し訳ないんですけど」
「なんていうタイトル?」
「「クロノクルセイド」です」
思わず時間が停止してしまった。
「知らないですよね……」
「ああ、いやいや、ジャストタイミングで読んでいた。懐かしいな。アニメにもなった」
「え! 十束さんくらいの年齢になると、知らないと思っていました」
「たぶんエレナさんとそれほど変わらないと思うけど」
いったい、僕は何歳だと思われているのだろう。隣の席にいる賀来さんが顔を本に向けたまま、黙って肩を震わせているが、少し口から笑いが漏れている。
「あの頃に流行ったマンガ、何があったかな」
誤魔化すように声にして言いながら、記憶を探る。
「「王ドロボウJING」とかかな。知っている?」
「ええ、知っています!」
エレナが身を乗り出してくる。
「最初は「コミックボンボン」に連載されていましたよね。それから、タイトルが「KING OF BANDIT JING」になって、より大人向けになって、好きな作品です。私が以外に今も知っている人がいるなんて、驚きです!」
ここは秋葉原だから、たぶん何百人といるだろうけど……。
そんなことを言うエレナこそ、年齢がよくわからない。
見た目は二十歳くらいだと思うんだけど、年を聞くのはさすがに失礼だ。
「「天上天下」は知っていますよね?」
そう促されて、おいおい、と思わず呟きそうになった。
大暮維人の「天上天下」はだいぶ読み込んだ口だ。ただやや露出の多いシーンがあって、女の子に対して、「天上天下」が好きだ、なんてあまり大きな声では言えない。
「まあ、知っているよ、世代だから」
「「エア・ギア」とどちらが好きですか?」
「「天上天下」だね、それは。エレナさんは?」
「同意見です。「天上天下」の展開は胸熱です。あの最後の最後で脇役だと思っていたキャラクターが、最重要なポジションに据えられる感じとか、本当に胸が熱くなります」
思わず笑ってしまった。僕もあの作品を読んで、全く同じ感想だったからだ。
「あれもいいと思う。過去編。戦国時代の奴。真田幸村が、どこからどう見ても俵文七なの、面白いよね」
「ああ、あれは、もう狙いがすごいですね。エンディングのところで、古代の場面があるの、覚えてますか?」
「ええ、ええ、覚えています。僕の中では、あそこももっと本格的に描かれれば、また違った感想もありそうだけど、でもあの最終盤でそのエピソードを挟むと、スピード感が消えちゃって、ダメだろうなあ。外伝でもあればいいのにね」
こんなに女の子と「天上天下」について話したことはないので、僕もやや興奮していた。エレナも少し頬が赤い。
いつの間にか二人とも熱くなっているようだ。
「同じ偉大な作品だと、平野耕太の「HELLSING」も読んだね。エレナさんは?」
「もう震えましたよね、あの作品は。絵自体はシンプルなんですけど、キャラクターの造形も台詞回しも超一流です。でも序盤であの終盤は予測できなかったです」
「そうそう。二巻とか三巻でミレニアムの存在が出てきて、第三帝国、とか言われても、ピンとこないんだよね。その辺りは僕も当時は勉強不足だったけど。で、ナチスの鉤十字が出て、驚くことになる」
「四巻だったと思いますけど、伊達男とアーカードの戦いとか、興奮しますし、五巻か六巻あたりで、吸血鬼の根城になった空母に向かって、アーカードが偵察機で突っ込む場面もいいですよね!」
気づくと、賀来さんが顔を上げて不思議そうな目でこちらを見ている。
僕とエレナがそちらを向くと、賀来さんが片方の眉を器用に持ち上げる。
「何の話か、さっぱりわからないな」
「漫画ですよ」
「私が知っている漫画は「ブラックジャック」くらいだな」
ここで「ブラックジャックによろしく」のタイトルを出しても、賀来さんも知らないだろうと止めようとしたが、賀来さんはすぐにこう続けた。
「「岳」は読んだな。いい漫画だったよ。最後が切なくてな」
今度は僕とエレナが視線を交わす番だった。
意外に「ブラックジャックによろしく」辺りは読んでいるかもしれない。同じような雰囲気だと、「仁 -Jin-」なんかも読んでいそうだ。
賀来さんがレモンティーを少しずつ飲みながら、本家の手塚治虫の「ブラックジャック」の小話を始めたので、僕はそれに相槌を打った。話の最後に「この店にも愛蔵版があったな」と賀来さんは締めくくった。
本棚へ行ってみると、確かに愛蔵版が本棚の隅にずらっと並んでいる。
「おすすめのエピソードはブラックジャックの腹の中からメスが出てくるやつだ。手術で体内に残されたメスに、天然の鞘ができるんだ」
それじゃわかりませんよ、と紹介者に応じながら、僕はとりあえず、第一巻を手に取った。
(続く)
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