2-4 好きなタイトル

     ◆


 六月になって土曜日にミストが店にいる日になった。

 あまり早く行くのも恥ずかしいので、カツ丼の店で昼食を済ませてから、十二時過ぎに俗典舎へ行った。

「いらっしゃいませ」

 ミストがそこにいる。僕はカウンターで、何度目かわからない賀来さんの横に座った。

「フレドリック・ブラウンを読んだって聞いたけど」

 レモンティーを出してくれながら、ミストがそう声をかけてくる。店には僕と賀来さん以外の客はいない。

「ええ、面白かったです」

「私が好きなSF作家は、光瀬龍よ」

 反射的に賀来さんを見るが、すました顔でそこにいてこちらを見ない。僕はミストに向き直った。彼女はニコニコしている。もう一度、賀来さんを見ると、

「からかうのはやめてあげなさい、ミスト」

 と、笑い混じりに髭に埋まった口からやっと言葉が発せられる。

 ミストが笑い出し、賀来さんも笑っている。僕は何がなんだかわからなかった。

「私の好きな小説を知っている人はいないのよ、十束さん」

 ミストが艶然とした笑みを浮かべる。

「この店を始めた直後に、私の好きな小説を知りたがる客がいてね、もし当てられたらサービスする、なんてことになって、まぁ、アリスには怒られたわね」

 それって何年前のことだろう? 僕の疑問をよそに、ミストが続ける。

「それで、私はカードに好きなSF小説のタイトルを書いて、一人一回だけ回答できるとしてね、ゲームをしたわけ」

「「カウボーイ・ビバップ」のパクリだな」

 素早く賀来さんが口を挟むと、オマージュよ、とミストがピシャリと言い返す。

「とにかく、そうしているうちに、誰も答えられないままになっているということ。光瀬龍は「百億の昼と千億の夜」を読んだけど、ちょっとわかりづらいかな。萩尾望都のイラストは好きだった」

 ミストのやや挑戦的な視線を受けて、僕は思わず眉間にシワを寄せてしまった。

「そのカードはまだあるんですか?」

「あるはずだけど、アリスが持っているんじゃないかな」

「ゲームはもう終了ですか?」

「挑戦するつもり?」

 いや、ええ、まあ、どうかな、などと呟いて、僕は時間を稼いだ。

 今の頭の中にある知識では、とても足りないし、砂浜の中から一つの金の粒を探すほど難しい問題だ。

「ゆっくり考えていいわよ」

 言いながらミストはフィナンシェを二つ、お皿に乗せてカウンターに置いてくれる。

 僕は紅茶を一口飲んで、本棚の方へ移動した。

 この中に答えがあるのかな。やっぱり古典なんだろうか。日本の有名なSFでないなら、自然と海外SFになるけど、古典の海外SFは僕はあまりに知らなすぎる。

 最近、スポットライトが当たった作品は除外、なのかな。例えばジョージ・オーウェルは違うのか。

 絶版の本の可能性もある。そうなると範囲は限定できない。

 何気なく古そうな文庫本の、ウィリアム・ギブスンの「クローム襲撃」を手にとって、席へ戻った。

 短編集なので、サクサクと読める。

 僕が顔を上げると、ミストもカウンターの向こうで本を読んでいたのが、顔を上げる。彼女の手にあるのは、フィリップ・K・ディックの短編集「人間以前」だった。まぁ、深い意味はないんだろう。

 彼女がレモンティーのおかわりを注いでくれて、僕が読書へ戻ろうとすると、ドアが開いて、ひょっこりと青柳が顔を出した。店はテーブルは空いているので、自然、青柳が店内へ入ってきた。キラキラした瞳がこちらを向く。

「ここのところ、ここでしか会わないな」

 ニヤッと笑って青柳が言うのに、僕も同じ表情を意識して作って見せる。

「そんな感じだね。誰かがここに入り浸っているんだろう」

 自覚はあるわけだ、と言いながら肩を叩いて、青柳は本棚の方へ行ってしまった。すぐにミストが動き出し、おやつとレモンティーが用意される。

 僕は読書に戻り、フィナンシェを少しずつ食べた。賀来さんはすでに四つ目のフィナンシェを食べていて、僕はまだ図々しくもなれず、おやつを余計にもらうことは遠慮していたのだった。

 ウィリアム・ギブスンの「クローム襲撃」を読み終わると、ミストがやってきて、ハヤカワ文庫の絶版と復刊の周期について話した。電子書籍がもっと普及すれば、絶版なんて存在しなくなるけれど、紙じゃない本はどこかおかしい、とミストは眉をひそめている。

「年寄りには縁のない話だな」

 賀来さんが不敵とでも呼ぶべき調子で言うが、年寄りというのは過剰な表現のジョークだ。実年齢は知らないけど。

「賀来さんが年寄りなら、私はもうおばさんだわ」

 ミストが素早く切り返すと、世界には歳をとらない女性がいる、と今度は賀来さんがやり返す。

「それはどういう女性? どこの小説に出てくるの?」

 そんな風に口元を押さえつつミストが言い返すのに、どの作品だったかな、と賀来さんはとぼけていた。僕は賀来さんがどう答えるのかと、カップ片手に彼の方を見ている。

「ああ、あれは、ヴァージニア・ウルフだね」

 賀来さんはさして苦しげでもなく、平然と答えた。僕はすぐにピンときたけど、ミストは不思議そうな表情だ。

「「オーランドー」ですか。なるほど」

 僕がそう言うと賀来さんが何かを企む顔で頷き、僕は笑わずにはいられなかった。

「あれは反則ですよ。女ですけど、最初は男でしょ」

「でも、生きすぎるほど生きただろう?」

「生きすぎるほど生きましたけど、でも歳はとったんじゃないですか?」

「そうか、そうかもしれない。いや。あの作品はまだ人生で二回しか読んでない。重いんだよなぁ」

 最後がぼやきのようになり、結局、ミストを置き去りにして、僕と賀来さんは笑っていた。

 結局、僕はミストの好きなSFが何かを考えるのをわきに置くことにした。

 そのうち、何かの形でヒントがあるだろう。



(続く)

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