2-2 天才のいる世界といない世界
◆
六月になる前に、一度、金曜日の午後に俗典舎に行くことができた。
事前にアリスに訊ねて、その日にミストが店頭にいることを確認してあった。
「オススメのSFを知りたくて」
席について、紅茶を淹れてくれたミストにそう切り出すと、彼女はあんみつの入った小さな器をテーブルに置いて「良いですよ」と請け負ってくれた。
本棚の前に移動する。
「国内SFが良いのかしらね」
「あまり難しくない奴が良いです」
そうなのねぇ、と呟きながら、ミストは本棚を上から下まで眺めていく。店には他の客もいないので、助かった。別にミストを独占したいわけでもないけど、彼女の仕事の邪魔するのも悪いから、と心の中で自分に言い訳しておく。
「これかしらね」
言いながらミストが一冊の文庫本を取り出す。
宮内悠介の「アメリカ最後の実験」だった。
「読んだことある?」
「えーっと、そう、「盤上の夜」は読みました。あと、「ヨハネスブルクの天使たち」も」
「「エクソダス症候群」もおすすめかな。ハードカバーだと、「超動く家にて」も良いかもしれない。宮内悠介は、十年代でステップをいくつも上がった作家じゃないかしら」
ちょうどそこで一人のお客がやってきて、ミストはそちらへ行ってしまった。
テーブルで僕は宮内悠介の「アメリカ最後の実験」を読み始めた。
ここのところ、あまり見ていないけど、賀来さんのことが思い出された。彼が小川洋子に関して話したときのことだ。あの本を読んだ時と同じ感覚が、今の僕にもある。宮内悠介もやっぱり、雰囲気を醸し出す作家らしい。
夕方になって、用事の時間になったので、本棚に本を戻し、会計をした。
「気に入った?」
さりげなくミストが訊いてくるのに「すごく」と答えておく。嬉しそうにミストが微笑む。
「まだ色々とあるから、今度、話しましょう」
そんなことを言ってから、ミストは次に土日で自分が店に出る日を教えてくれた。その程度には僕のことは認知されているわけだけど、それもそうか、会員証を持っている人は百人と少ししかいないのだし。
よくよくお礼を言って、僕はその足で恵比寿まで電車で移動して、ライブハウスでマイナーな歌手のライブを眺めた。
そのまま、特に理由もなく、恵比寿から新宿まで歩くことにした。季節的にはやや暑いけど、夜なので風が心地いい。
ゆっくりと恵比寿から渋谷、原宿、新宿と抜けていく。ライブハウスを出たのが二十時半過ぎだったのが、新宿には二十三時になろうかという時間に辿り着いた。
歩いている間、僕の頭にあったのは、伊藤計劃の可能性だった。
伊藤計劃が亡くなったのは、二〇一〇年辺りだったはずで、宮内悠介は明らかにその次の世代だった。もし伊藤計劃が生きていれば、どんな影響があっただろう。
今は宮内悠介が新しい日本のSF小説界の旗手のように僕には見えるけど、もし伊藤計劃がいれば、伊藤計劃が第一人者になったのか。その世界で、今のように宮内悠介が評価されたのか。
僕が考えていることはきっと下世話な、身勝手な妄想だろう。
伊藤計劃がいないから宮内悠介が評価されたわけではない。伊藤計劃がいても宮内悠介は登場し評価されたはずだ。
それなのに一人の天才の存在が全てを変えてしまうことを妄想するのは、僕の中における天才への羨望が、暴走しているからかもしれなかった。
京王線で三十分も揺られ、深夜の最寄駅で降りる人はほとんどいない。ぶらぶらとアパートまで歩いて帰り、その日はさっさと風呂に入り、カップ麺をかき込んだら、歯を磨いてベッドに倒れこんだ。
どこかで誰かが議論している。
最高のSF作家は誰か。そのSF作家の最高傑作は何か。
ぐるぐると議論が続く悪夢が去り、僕は目を覚まして、窓の外を見た。薄暗い早朝で、つまり僕は何の変哲も無い一人暮らしのワンルームにいて、三階の部屋の窓の向こうには道路の向かいのアパートの外階段がある。
あまりの平凡さにがっかりしながら、今日は土曜日で、つまり、自由だと認識が追いついた。
早めの朝食の後、やることもなく、結局、また電車に揺られて秋葉原へ向かっていた。昨日の深夜と違い、最寄駅からして人で溢れ、電車では座ることもできない。秋葉原の駅もすごい混雑で、ひっきりなしに人が行き交っている。
電気街口で降りて、細いポールの上の時計を確認。まだ十時半過ぎだ。そこに立ち尽くしていると高額の絵画を売りつけられることは知っているので、さっさと歩き出し、先に寄り道することにした。
これは青柳が教えてくれたことだけど、服を買う金に困ったら、アイドルグッズのショップに行けばいいという。そこではアイドルのライブグッズの中古品が唸るほどあり、その中でもライブTシャツなどは中古になると二千円もしないというのだ。
このTシャツが比較的まともなデザインなので、下手に激安の量販店で買うよりはマシ、ということだった。
ただし、大学に着ていくと、その筋のオタクに笑われる、と青柳は真面目な顔で言っていた。あれは経験者の瞳だったな。
僕は開店直後のアイドルグッズを商う店で適当なTシャツを二枚手に入れ、今度こそ俗典舎に向かった。
雑居ビルの最上階で、ドアを開けると、店内には賀来さんがいるだけだった。ウエイトレスのニコルがこちらを向く前に、賀来さんが手を挙げていた。
「いらっしゃいませ」
微笑む黒髪の美少女に頷いて「どうも」などと言いつつ、僕は店内に滑り込むように入った。
(続く)
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