第2話 伊藤計劃と宮内悠介と藤井太洋

2-1 口喧嘩の理由とその収め方

     ◆


 五月下旬、青柳と秋葉原でCDを探し回り、それから俗典舎に行くことになった。

 ビルの間を抜け、人がいないようなところにひっそりと建っている雑居ビルが、目的地だ。

 最上階までエレベータで上がり、空き事務所らしい扉二つの前を通り抜けてから、俗典舎という看板のある扉を開ける。いつかのように青柳が顔を突っ込み、すぐにドアを開けて中に入るので、僕も続いた。

「いらっしゃいませ」

 穏やかな声で言ったのは二十代だろう女性で、濃いめの茶色い髪の毛はひとつに結ばれているけれど、綺麗に巻かれてもいる。

 彼女はミストというウエイトレスで、僕はあまり彼女と遭遇することがない。

 どうやら平日に働いていることが多くて、休日に行くことがもっぱらの僕とはすれ違いになるのだ。

「今日のおやつは?」

 慣れた様子で青柳がテーブルの一つの椅子を引く。もう一方のテーブルでは二人の男性が小声で何か話している。それぞれの手元には本があるが、何の話だろう。

 彼らに背中を向ける形で、僕は椅子に座り、ミストがすぐにお茶を用意してくれる。

「オーツ麦ビスケットですよ」

 さりげなくミストが青柳の質問に答え、青柳は「良いね、例のシナモンが効いている奴だね」と応じていた。ミストはこの店のウエイトレスの例に漏れず、控えめに口元をほころばせているが、他の三人とは違う色気のある笑みだった。

 ちょっとドキドキするなあ。

 無意識にミストの背中を目で追っていたけど、青柳が本棚に向かって席を立ったので、僕も続いた。すでに米澤穂信の「折れた竜骨」は読み終わり、短編集の「儚い羊たちの祝宴」と「追想五断章」も読破していた。

 他に何かミステリがあるかな、というのがここのところの僕のテーマだった。

 綾辻行人も興味深くて、すでに読んだことがあるけど、これを機に館シリーズを読み直してもいいかもしれない。「十角館の殺人」は面白い内容で、しかし再読はしていないのであのトリックは、二度目に読むとインパクトが薄いように思える。ただ、もしかしたら巧妙な伏線に新しく気付けて、そういう形で楽しめるかもしれない。

 他にもミステリでは、佐藤友哉の「フリッカー式」から始まるシリーズ、北山猛邦の「「クロック城」殺人事件」から始まるシリーズもあるな。

 そんなことを思っていると、急に背後で椅子が揺れる音がした。

 振り返ったまさにその瞬間に、席を挟んで向かい合っている二人が立ち上がり、睨み合ったところだった。青柳を伺うと、彼もぽかんとしている。

 二人は立ち上がったままで小声で話しているが、とても穏やかな雰囲気ではない。

 断片的に聞こえる言葉には、伊藤計劃、というワードが頻出した。しかし伊藤計劃に関して何をそんなに熱くなるんだろう?

 そんな二人を眺めている僕たちに、ミストが近づいてきた。何をするかと思うと、彼女は僕たちの横で本棚を眺め、数冊の本を引っ張り出した。そしてそれを手にテーブルに行くと、二人に声をかけ、テーブルに本棚から持っていった本をそっと置いた。

 反応は劇的で、二人ともが雰囲気を和らげ席について、その上で僕たちに謝罪だろう、ぺこりと頭を下げた。

 あまり注目していても悪いので、僕は本棚に向き直り、伊藤計劃の本もいいかもな、と思って本棚を探した。

 伊藤計劃は僕が知っている中で、国内のSF作家では神林長平に次ぐ天才だったが、夭折している。文庫で勘定すると、オリジナル長編が二作、ゲームのノベライズが一冊、ブログや批評、漫画などがまとめられたものが文庫では四冊ほど、というのが全てである。

 本棚にも伊藤計劃は点在していて、しかしゲームのノベライズ「メタルギア ソリッド ガンズ・オブ・パトリオット」が見当たらない。仕方なく、「虐殺器官」を引っ張り出して、席に戻る。

 背後の二人が気になるけれど、小説を読み始めるとそれに集中してしまうのが、読書家の読書家たる所以だろう。

 何度か「虐殺器官」は読んでいるけれど、この作品の序盤で、主人公とその友人が映画「プライベート・ライアン」を見るシーンがある。あのシーンは好きだし、何より、ピザが食べたくなる。

 そんなことを思いつつ、時間を忘れて読んでいると、後ろにいた二人組が席を立つのがわかった。ミストに礼を言って、二人は会計を済ませて店を出て行った。

「さっきは何だったの?」

 テーブルを片付け始めたミストに、さりげなく青柳が質問する。

「伊藤計劃がどうこう、って感じだったけど」

 そう青柳が促すと、ミストはふんわりと笑った。

「「虐殺器官」と「ハーモニー」、どちらが優れているか、という口喧嘩だったのよ」

 よく言葉が理解できなかったけど、ゆっくりと消化されると、そんなことであんな状態になるとは、相当に伊藤計劃が好きなんだろう。青柳は堪えきれずに笑っている。

「どうやって収めたんですか?」

 興味本位で聞くと、待っててね、とミストが本棚に行き、さっきのように本を数冊、持ってきた。

 それは伊藤計劃のブログ記事をまとめた文庫本と、「目標は11人」、「戦争広告代理店」の二冊の文庫本だった。

「これでも読んで勉強してからじゃないと、恥ずかしいですよ。そう言ったの」

 へぇ、と青柳が手を伸ばし、彼が「目標は11人」のあらすじを読んでいる間に、僕は「戦争広告代理店」のあらすじを読む。そしてすぐに二人で本を交換する。

 その僕たちの様子を見ながら、ミストが言う。

「その二冊は、伊藤計劃が自身のブログの中で取り上げているの。面白いわよ。「戦争広告代理店」と「虐殺器官」はどこか似た要素があるしね。マニアックな内容だけど、言葉によって人間の印象を操作するのが、少し共通するかな」

 小難しいのはなしだ、と言ってテーブルに青柳がそっと置いた文庫を、僕は手に取った。

 僕は「虐殺器官」を一休みにして、「戦争広告代理店」を開いて、読み始めた。



(続く)

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