1-5 馴染んだ空気

     ◆


 俗典舎へ出向くと、会員証が用意されていた。

 思ったよりもしっかりした作りで、地元の大きな病院の診察券を思い出した。もしくは銀行のキャッシュカードだろうか。

「いらっしゃいません、十束さん」

 ニコニコと笑ってニコルが僕を迎えてくれる。

 時間はすでに十二時を回っていて、早めに昼食を終えたらしい二人連れがテーブルにいて、カウンターには賀来さんがいる。僕は自然と賀来さんの隣に座った。

「会員になったらしいな」

 賀来さんがそう言うけど、ヒゲが伸びすぎていて、口元は見えない。メガネのレンズ越しの目元でかろうじて笑っているとわかる。

「番号はいくつだ?」

 受け取ったばかりのカードを引っ張り出すと、数字は一〇一になっている。

「一〇一? キリ番じゃないのか」

「キリ番って、一〇〇番の人を知らないのですか?」

「知らないなぁ、私に近づかない奴なんだろう」

 そう言われると、賀来さんを忌避する客もいるだろう。

 席におやつが運ばれてくる。クラッカーの上にジャムが乗っている。ここで出るジャムは自家製だ。今日はラズベリーのジャムか。

 湯気をあげる紅茶を啜りながら、本棚から小川洋子が編んだアンソロジーを引っ張り出してきたのを、読み始める。

 夕方までかかって、最後まで読み終わり、顔を上げる。まるで時間が経過していないように、店内には変化がない。賀来さんはカップを片手に、文庫本をもう一方の手で器用に目の前に開いている。

 ウエイトレスは、と見ると、ニコルが、いつの間にか帰って行ったらしい、僕が入店した時には二人連れがいたテーブルを付近でぬぐっている。

「ニコルさん、あの……」

 思わず声をかけていた。ニコルが振り返り、首を傾げる。

「何かありましたか?」

「オススメの本、何かありますか?」

 自然とそんな言葉が出る程度には、僕はこの店に馴染んでいることになる。

 ニコルは頷くと、こちらへと僕を本棚の前へ連れて行った。

「日本の小説がいいですか? それとも海外ですか?」

「うーん、日本、かな」

「軽いもの、重いもの、エンタメ、文学、何にしましょう」

 軽いもの、と答えると、ニコルが笑みを見せて、視線を本棚に向ける。

「これですかね」

 取り出されたのは二冊の文庫で、米澤穂信の「折れた竜骨」の上下巻だった。

「ミステリで、ファンタジーの世界が舞台です。でもミステリとしては逸品ですよ」

「米澤穂信は、「満願」を読んだかな。あと小市民シリーズ。いい作家だと思っていた」

「軽妙な筆致で、本格的なミステリを作る名手ですよね」

 礼を言って、僕は席に戻った。

 その日は閉店までそこで粘って、アリスは蛍の光ではなく、何かのジャズを演奏した。

「何の曲かわかるか?」

 本棚に本を戻すとき、賀来さんが囁いてくる。

「いえ、わかりません」

「オスカー・ピーターソン、「酒と薔薇の日々」だ」

 はあ、としか答えられなかった。恥ずかしいことに、僕の音楽趣味はここ五年ほど、極端に偏っていた。ジャズは親戚にその筋が好きな人がいて、僕は形だけ聞いているくらいの知識しかない。

 ウエイトレス二人に見送られて外へ出ると、日が長くなったので、まだ薄暗い程度だ。

「飯でも食っていくかい、十束くん」

 僕の名前を覚えたらしい賀来さんに誘われたけど、丁重に断った。まだそこまで親しくない、と判断したんだけど、賀来さんは不服そうに「独り身の食事には変化が必要なんだが」と呟いていた。

 賀来さんはその風貌で年齢不詳なのに、職業も不明で、どうやら独り身であるとはわかったけど、どういう背景を持っているんだろう?

 それもいつか、俗典舎で知ることになるのだろうか。

 丁寧に別れを告げて、薄暗い電気街、というか、オタクカルチャー、ポップカルチャーの奔流にひっそりと消えていく、寂しげな背中を見送り、僕は駅へ向かった。

 向かったけど、ふと気が向いて秋葉原駅のすぐそばのヨドバシカメラに方向を変えた。書泉ブックタワーも好きだけど、そこは余りに狭すぎて、窮屈だ。ライトノベルを買うにはいいんだけど。そんなことを思いながら、ヨドバシカメラの上にある有隣堂に足を踏み入れた。

 文庫の棚に向かい、それぞれの出版社で米澤穂信を探す。作者名の五十音順で並んでいるのはこういう時にありがたい。ブックオフだと出版社はごちゃまぜで作者名で並んでいるので、そっちはさらにありがたい。

 ぐるぐると棚を巡り、米澤穂信の「氷菓」を買うことにした。俗典社で「折れた竜骨」は読むことにして、それまでの間、これで無聊を慰めよう。

 会計をして、今度こそ駅へ向かう。

 秋葉原は今日も人で溢れている。一度も利用したことのない、つくばエクスプレスの出入り口を横目に、Suicaで改札を抜ける。

 ホームに立ちながら、もう買ったばかりの本を開いていた。有隣堂は紙のカバーの色が豊富で、十色から自由に選べるのは嬉しいサービスだ。「氷菓」には緑がかった薄いグレーのカバーがかかっていた。

 電車が来て、乗り込み、総武線から中央線に御茶ノ水で乗り換え、そのまま新宿まで行き、新宿では京王線に乗り換えた。

 どこかちぐはぐなことを感じる自分がいる。

 本を読んで乗る電車と、本を読んで過ごす俗典舎、両方でやっていることは同じなのに、まるで時間の流れが違う。

 時間とそこを埋める何かの密度のようなものが、食い違っていて、電車の中は落ち着かなかった。

 暗くなった頃、アパートの部屋に戻って、荷物を放り出してベッドに寝転がる。床から投げたばかりのカバンを引きずり寄せ、文庫本をひっぱり出した。

 僕は「氷菓」を開き、ページをめくり、なぜか家よりも俗典舎の方が落ち着く自分が、不思議だった。



(第1話 了)

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