1-4 特別な客と幼い店主
◆
四月が終わり、五月になった。
俗典舎のポイントカードはあっという間に残り一つの空白を残すだけになっていた。ゴールデンウィークに通い詰めたので、一気にスパートがかかった形だった。
久しぶりに俗典舎で青柳と再会した。僕が本を読んでいるところに、青柳が来たのだ。ちなみに僕の横の席には賀来さんが既に腰掛け、何かの分厚い文庫本を開いている。
「何を読んでいる?」
青柳の質問に、「小川洋子の偏愛短編箱」という書名を答える。文庫化もされているけれど、俗典舎にはハードカバーが置かれている。
「アンソロジーだよ。結構、面白いな」
「アンソロジーね。「名短篇」のシリーズは知っているか?」
「宮部みゆきと高村薫だったっけ? 二、三冊は読んだかな」
「あれは勉強になるよな。邪魔して悪かった」
ひらひらと手を振って、青柳が二人用のテーブルのところへ行き、椅子に荷物を置いて、本棚の方へ向かった。
僕は内田百閒の短篇を読みながら、十分にその世界に浸っていた。
今日の俗典舎のおやつは、イチゴ大福だった。これで緑茶が出てくるかと思えば、出てきたのはアイスティーである。まぁ、気候はもう暑いくらいの日もあるので、それはそれでいい。
十回近く俗典舎に通ってわかったことの一つは、この店がどうやら飲み物は紅茶に限定している、ということだ。コーヒーもないし、コーラやサイダーもない。当然、アルコールもない。
注文を聞いたりする手間が省けるけれど、紅茶が苦手な人はどうするのだろう?
そんなことを思いつつ、紅茶を飲み終わると、今日は金髪の女の子であるエレナがやってきて、視線でおかわりを確認し、頷いて見せるとそっとグラスに新しい氷を二つほど入れ、そこへポットから紅茶を注いでくれる。どうやら水出しらしい。氷が溶けるとちょうど良い淹れ具合だった。
じっくりと短編を読み進め、空腹を感じた頃にはおおよそ残しのページも半分くらいになった。そろそろお昼ご飯だ。僕が立ち上がると、青柳も立ち上がる。
「何か食べて帰るか」
そう声をかけられて、実はまだ本を読みたいからここへ戻ってくる、とも言えず、当初の計画を諦めて今日の読書はここまでにすることにした。
ポイントカードの最後の十個目のスタンプを押してもらい、会計をしてくれたエレナが小さな用紙を差し出してくる。そこに僕は誕生日と氏名を書いた。
用紙を受け取ったエレナが用紙を切って控えを渡してくれる。
「次回の来店の際には会員証をご用意しますので。本日もありがとうございました」
頭を下げるエレナにこちらも軽く頭を下げ、店を出た。
「いつの間に十回も来た?」
「まぁ、暇を見つけてね」
「交通費で本を買ったほうが安いだろう」
それは事実だったけど、俗典舎の空気が好きなので、少しの出費は許容できる。
ちなみに青柳は都心に部屋を借りて住んでいるので、羨ましいことに俗典舎には徒歩で三十分もあれば辿り着ける。僕が三十分も電車に乗ることを考えると、やや虚しいので、無視することにしていた。
二人で秋葉原の数少ない食堂の中でも、コアなオタクが好むラーメン屋に向かった。量が多く、安く、それ相応に美味くない店だ。青柳などは平然と、「三年後には別の店になるだろう」と予言していた。
ラーメン屋の席でも、僕たちは小説に関する話をしていたけど、不意に青柳が「賀来さんはもう知っているよな」と話題を変えた。
「賀来さんって、あの賀来さん? 俗典舎に大抵いる?」
そうそう、と青柳が頷く。
「あのおっさんはすごいぞ。とにかく、よく本を知っている。ウエイトレスよりもな」
「ウエイトレス?」
誰のことだろう?
知らないのか、という顔で、青柳が僕を見る。
「あの店のウエイトレスも、読書家だよ」
「へぇ、知らなかった。本を読んでいるところは見たけど、青柳はあの子たちとそういう話をするわけ?」
「通い詰めるとね。面白いよ、あの子たちは」
まるで友達を紹介するような様子に、僕が苦笑いしていると、そこへラーメンがやってきた。やっぱり山盛りであることと安いことを理由に、なんとか無視できる程度の味だった。
「そういえば」
不意に思い出したことがあったので、青柳に訊ねてみた。
「いつだったか、賀来さんが、パンケーキを食べていた。あれはどういうこと?」
「俗典舎の七不思議だよ」
「七不思議?」
「ウエイトレスがメニューにないものを出すんだな。あのおっさんはそういうところでも、特別だってこと。あそこの主なのかもな。もしかしたら本当はあのおっさんが経営者で、あそこの蔵書はあのおっさんの蔵書、ということもある」
まさか、と笑うしかなかったけど、こっそりと青柳が教えてくれた。
「実際は知らんが、一応の店主は、アリスだよ」
「アリス?」
今度は、まさか、という余地もなかった。
四人のウエイトレスの中でも、アリスは一番幼く見える。ニコルと同じくらいだろう。高校生じゃないのだろうか。うーん、女の子の外見から年齢を当てたり絞ったりするのは、得意じゃない。男性でもそうだけど。
「まぁ、そのうち、わかるだろうさ。それにしてもこのラーメンは美味くないな」
そんなことを言いつつ、しっかりと食べきって汁まで飲んで、僕たちは店を出た。
次に俗典舎へ行ったら、ウエイトレスに質問してみよう、と思いながら、帰りの電車に揺られる僕がいた。
(続く)
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