1-3 不思議な男性

     ◆


 平日は学校があるので、月に二度、土曜日か日曜日に僕は俗典舎に顔を出した。

 この店の仕組みのユニークな点、いっそ無謀と言ってもいい部分は、店内が満員だと入店できないことだ。その上で、店内にいる客は追い出されることがない。後ろがつっかえていても、いつまでもいていいのだ。

 これでは回転率が極端に下がり経営を著しく圧迫するのは歴然なのだから、不思議な商売だ。

 もっとも、滅多に満員になることはなく、いつもカウンターの席の一つくらいにはありつけた。

 ウエイトレスは四人で、名前も自然と覚えた。

 あのピアノを弾いた女の子がアリス。

 最初に僕と青柳の接客をした女の子がニコルだ。

 この二人の他に、二十代くらいの女性がミストという名前で、もう一人は綺麗な金髪の女の子で、彼女はエレナという。

 これが俗典舎の全従業員と言えるようだ。

 しかもこの四人が揃う時は滅多にないと、そのうちに僕も気づいた。大抵は四人のうちの二人で店を回している。小さな店だし、お客は満員でも六人だから、二人でも十分ではあるけど。

 僕は俗典舎に行くと、すぐに本棚の前でじっくりと本を物色する。

 高校生になる頃から、変に読書に打ち込む癖がついてしまい、高校の三年間は図書室に通い詰めた。自分でも本を買い漁り、個人経営の書店はもちろん、チェーンの古本屋でも顔を覚えられていたほどだから、タチが悪い客だったか、もしくはいいカモだっただろう。

 とにかく、一人暮らしを始めるにあたって数百冊を実家に残してきた身としては、俗典舎はまるで自分の書棚の一部で、さらには見知らぬ本も多い、魅力的な書棚なのである。

 本棚の前で綾辻行人の「Another」のあらすじを眺めていると、「そいつはホラーだよ」と背後から小さな声がした。

 驚いて振り返ると、髭を伸ばした男性が立っている。年齢はよくわからない。年をとった二十代か、平凡な三十代か、若い四十代か、どれにも思えた。

 いつからそこにその男性がいたのは、全く気づかなかった。今日は僕の他にはまだ客はいなくて、時刻も開店とほぼ同時なのだ。

「僕の中では綾辻行人はミステリ作家だったからね」

 男性が平然と話し始めた。初対面なのに。

「まぁ、館シリーズから入って、箸休めに「Another」を読んだんだが、ミステリだと思い込んでいた。思い込んでいたが、読み終わってみれば、こいつはホラーだったな。まぁ、悪くはないぞ。空気はいいものがある」

「空気、ですか?」

 そんな質問をする自分がおかしかったけど、相手の男性は悠揚と構えていて、頷いている。

「作家にはそれぞれに空気がある。「十角館の殺人」だの「霧越邸殺人事件」だのと同じ空気が、「Anohter」にもある、ってことさ。まぁ、「霧越邸殺人事件」はミステリとホラーが半々かもしれないけれど」

 そんなことを言い出す男性は本来的には変人なんだろう。

 でも僕はたった今の男性の言葉に深い共感を覚えていた。

「小川洋子、わかりますか?」

 思わずこちらから質問すると、男性が鷹揚に頷く。

「あの作家は稀有な作家だな。「博士の愛した数式」が定番なのかもしれないが、あの小説ではまだ小川洋子らしさは発揮されていない」

「やっぱり「猫を抱いて象と泳ぐ」ですか?」

「あれは逸品だ。誰もが読むべきだろう。ただ、本当の読書人にオススメできるのは……」

 男性はそう言いながら、本棚に並ぶ背表紙に人指す指を当て、横へ動かしていく。

 何段も何段もそうやって移動し、ついに一冊を見つけ出した。それは「薬指の標本」という文庫本だった。

「こいつを読んでみろ。たぶん、小川洋子という作家の空気がわかる」

 本を僕に手渡すと、男性は何気ない様子で一冊の文庫本を棚から引き抜き、カウンターの方へ戻って行った。そのまま僕のためのおやつが置かれたカウンターの席の横、壁際の方の椅子に腰掛け、背中を丸めて本を読み始めた。

 その後ろ姿を見ていると、この日の当番だったニコルがやってくる。

「面白い方ですから、邪険にはしないでくださいね」

 苦笑いしながら、ニコルがそう囁くので、僕も囁き返した。

「とんでもない。僕も面白い人だと思いました」

「とても熱心な読書家の方です」

 そう言ってニコルは手に持っていたティーポットをそっと掲げた。

 僕は男性の隣の席に座り、小川洋子の「薬指の標本」を読み始めた。

 作品世界に没頭し、僕は男性が言っていた空気というものを全身で感じた。

 小川洋子という作家が発散し、本に閉じ込めた、静かな空気だった。

「何か腹に溜まるものはないかね」

 横でそんな声がしたけど、僕はじっと文章を目で追い続けた。

 中編を一本、読み終わった時、横からはバターの香りがして、ちらっと見ると男性が小さなパンケーキを切り分けているところだった。バターがその表面で溶け、ハチミツかメイプルシロップがもうすでに垂らされている。

「どうだった?」

 男性がこちらも見ずに、両手を動かしながら訊ねてくる。本の感想だろう。

「びっくりするほど、なんというか、静かでした」

「私も同じ空気を感じたよ。小川洋子はなんであんなに、澄み切っているんだろうな。無駄がないわけじゃないし、文章が洗練されているのだろうか。不思議だよ」

 途中でもごもごとパンケーキを口に突っ込みながら、男性はそんなことを言った。

 僕もお腹が空いていたけど、さすがにパンケーキを作ってもらうほど、まだ店には馴染んでいない。

 そう思った時には、男性が「こいつにも作ってやってくれ、ニコル」と声をかけていた。慌てて僕は立ち上がり、本を返すことにした。

「また来ますから」カウンターの向こうにそう声をかけ、本棚に本を戻す。「お会計を」

 つまらんなぁ、と男性が呟く。

「私は賀来というものだ。また会おう」

 まるでこの喫茶店の主人のように、男性は堂々とそう言って僕にウインクした。

 どう応じることもできない僕に、ニコルが笑みを浮かべて「五百円です」と告げた。



(続く)

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