1-2 一つ目のハンコ

     ◆


 本棚を眺めると本当に色々な本がそこにはある。

 大半は文庫本で、小説が多いようだけど、池波正太郎が並ぶ隣に村上春樹があり、その横にはフィリップ・K・ディックと、まったくつながりがない。そのさらに横はシェイクスピアの文庫があった。

 ジャンル自体はおおよそ全てを網羅する、という感じだな、と見当がついた。

「「騎士団長殺し」は読んだか?」

 青柳からの質問。

「残念ながら、手を出していないな。「1Q84」でもう長編は最高点じゃないの?」

「読んでからそういう評価をしたほうがいい。もっとも、「女のいない男たち」は名作だったから、あれを読んじゃうと、そう思うのも悪くない。いや、「一人称単数」も良かったか」

「エッセイは良かったよ、そういえば。タイトルが長い奴」

「いい作家だよな、村上春樹は」

 そう言いいながら、青柳は村上春樹の文庫本、「風の歌を聴け」を引き抜いては、ペラペラとめくっている。

「オススメは?」

 こちらから訊ねると、即座に返事が来る。

「「国境の南、太陽の西」だな。シンプルで、何より読みやすい長さだ。似た感じで「スプートニクの恋人」もあるが、あれはちょっと俺には理解できない」

「僕もあれはちょっと理解に苦しむ」

「逆に十束のオススメは?」

「「1973年のピンボール」だよ。これは外せない」

 ヒューと小さく青柳が口笛を吹く。

「四部作の真ん中とは、気が利いている」

「さすがに「風の歌を聴け」から読むべきではあるね」

「それを二年前に教えてもらっていれば、俺がいきなり「ダンス・ダンス・ダンス」から読み始める愚行はなかったな」

 背後でさっきの黒髪のウエイトレスがお盆を持って僕たちに当てられた席に配膳を始める。青柳は村上春樹の「1973年のピンボール」の文庫本を手に、席へ向かう。

 僕も何かの本を手にする気になり、結局は桜庭一樹の「道徳という名の少年」のハードカバーにした。装丁と挿絵が美しくて、自分で買って部屋に置いてあるけど、いつ読んでも楽しめる。内容はちょっと過激で、しかしその過激さも好きだ。

 席に着くと、ウエイトレスが紅茶を淹れてくれた。

 皿の上には二種類のクッキーが置かれている。枚数が多いので、五百円はなるほど、逆に安価かもしれない。

「キャラメルクッキーと、抹茶とプレーン、ココアとプレーンの市松模様のクッキーです」

「ありがとう」

 慣れた様子で青柳が言うと、ウエイトレスはちょっと見惚れてしまうような笑顔を見せて下がっていった。

 僕は色々と聞きたいこともあったけど、青柳は平然と本を読み始める。それがここの流儀なら、従うべきかな。

 桜庭一樹を読み始めると、不思議と落ち着いた気持ちになる。何の音もなくて、他の客や青柳が本をめくる音くらいしかしない。あとは、カウンターの向こうから聞こえる、かすかな音。何の音かはわからない。

 太陽の光が差さないせいもあるだろう。室内は完全に照明だけで明かりを作っている。

 各席とカウンターにある強い明かりは本を読むのにちょうど良い光量だった。

 時折、紅茶を啜り、クッキーを口に入れる。クッキーは手作りのようだが、とても素人のそれとは思えない。スーパーやコンビニで買うクッキーとは比べ物にならない味の良さだ。

 紅茶だってペットボトルで飲むのとはまるで違う。

 そんな風にしているうちに紅茶を飲み終わったところへ、ウエイトレスが近づいてきた。

「紅茶はいかがですか?」

「ええ、もらえますか?」

 ウエイトレスが一度、カウンターに戻り、そこで今度は見える場所で紅茶を淹れてくれた。しばらくその手つきを眺めて、さすがに慣れている様子に感服した。まぁ、僕にはその手の経験どころか知識もないのだけど。

 そのウエイトレスが、僕のカップに紅茶を注ぎ直してくれる。

「おかわりは自由」

 まさにおかわりが自由か訊こうとした僕に、素早く青柳が言った。ウエイトレスはくすくすと笑っている。

 僕と青柳が入店してから、後からやってくるお客はなかった。

 カウンターには二席があるけど、どちらも空席で片方には今はさっきの美少女ウエイトレスが腰かけている。手に文庫本を持っていたけど、明かりと角度の加減で表紙は見えない。

 それよりも彼女があまりにも様になりすぎていて、チラチラと様子をうかがってしまった。

 二杯目の紅茶を飲み終わる時、カウンターの向こうにある扉から、今度は別の女の子がやってきた。黒髪のウエイトレスと同じ服装で、年齢も似ている。

 何かあるのかと思うと、壁際にあったアップライトピアノに向かい、指を柔軟させた後、鍵盤の上をゆっくりとその十本の指が踊り始めた。

 極端にアレンジされているけど、これは、蛍の光、か。

「さて、帰るとするか」

 まだ状況が飲み込めない僕の前で、青柳が立ち上がり本棚の方へ行く。他の客二人も、そちらへ行く。時計を見ると、十八時を過ぎている。閉店時間なのだった。

 僕は残っていたクッキーを口に放り込み、本を本棚に戻した。青柳が言うには、読みさしの本だけを差し込む場所があり、ボトルキープのような仕組みだという。

 それにしても、時間をかけてじっくりと観察したい本棚である。

 未練を感じながら会計をした。

「今日もありがとうございました」

 ピアノを弾き終わったウエイトレスが頭を下げると、黒髪の方も「ありがとうございました」と頭を下げる。

 会計の時、一枚のカードを手渡された。それには十個の空白があり、今はその一つ目にだけハンコが押されている。ポイントカードらしい。

「そのポイントカードを忘れるなよ。カードを持っていないと入れないからな」

「青柳は何ポイント?」

 何気ない質問への答えは、裏をよく読め、だった。

 僕は青柳と乗り込んだエレベータの中でポイントカードを確認した。

 俗典舎に入店される際は必ずお持ちください。お持ちでない方は会員の方のご紹介を必要とします。十回の来店の後は、会員証を発行します。

「つまり」

 得意げな顔の青柳が、すでに答えているようなものだけど、僕は言葉にした。

「青柳は会員証を持っているわけだ」

「そういうこと」

 しかし、何度も来たくなる店はあるな、とぼんやり感じ、そのぼんやりはすぐに消え、さっさと会員証をもらうとしよう、とエレベータが地上に着く頃には心に決めていた。



(続く)

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