書棚のある店で、青年は静かに本を読み、少女はささやかな恋をする。

和泉茉樹

第1話 村上春樹と小川洋子と綾辻行人と米澤穂信

1-1 旧友の誘い

     ◆


 大学生になった二年目の春先、僕は同人誌即売会に誘われていた。

 そもそもが地方の出身で、かろうじて東京都というしかない外れの私立大に入ったものの、はっきり言って冴えない大学生の典型的な状態が、この時の僕だった。

 即売会に誘ってきたのはサークルの仲間で、僕は実に奇妙なサークルに所属していたわけだけど、それはこの先の展開にはあまり大きな位置を占めるものではない。

 とにかく、噂では聞いていた同人誌即売会の、押し合いへし合いする有様を体験するために、僕は友人二人と片道三十分で都心にある大型施設に向かったわけだ。

 会場に入る前にだいぶ並び、どうにか入った途端、想像を絶する、とまではいかなかったけど、相応の激しい人の行き来により、僕はあっという間に友人とはぐれた。それから電話をかけても、周りの音がうるさすぎて、よく聞こえない。メールにも返事がない。

 まあ、いいさ。ここは趣味を楽しむ場で、共有できない趣味も多くある。

 というわけで、一人きりで即売会を楽しんでいたのだけど、そこで思わぬ再会があった。

「十束?」

 僕に声をかけてきたのは、高校時代の友人だった。同じように東京に出てきたのは頻繁とは言えないもののメールのやり取りで知っていたけど、会ったのはほとんど一年ぶりだ。彼は教職やら図書館司書やらの資格を取るために、ぎっしりと講義を受けていると聞いていた。

 彼の名前は青柳という。

「久しぶりだね、それに珍しいところで会う」

 こちらからそういうと、こっちのセリフだよ、と彼は笑みを見せた。

 少し痩せたね、とか、自炊はどう? とか、話しているうちに、同人誌やサークルの売り子たちを無意味に眺める作業も終わり、ちょっとお茶でも飲むか、と青柳が言い出した。

「少し遠いが、まあ、馴染みの場所だ」

「どこ?」

「秋葉原」

 僕の生きてきた期間の中で、秋葉原という名前がある種の神秘性と特殊性をはっきりさせたのは、中学生の頃にアニラジと呼ばれる声優などが出演するラジオ番組を聴き始めたことによる。

 地方の山あいの小さな街に生きる身としては、秋葉原という響き、その遥か遠くの都会の中の都会、趣味の一番濃いエキスを抽出した上に、ジャンルを横断して際限なく混ぜ合わせたような場所は、言って見れば聖地だった。

 今は都内にいるのだからと大学進学後は暇を見つけては、一人でも複数人でも秋葉原へ出かけて行っていた。

 青柳について電車で秋葉原へ移動し、その日は日曜日なので、歩行者天国で大通りを大勢の人が歩いている。そこからわき道へそれ、さらにわき道へ、もう一度、わき道へ。そんなことをすると、あっという間に人気がなくなり、ビルの狭間は自然、薄暗くなった。

 高層建築の谷みたい場所である。

「ここだよ、ここ」

 胡散臭いメイド喫茶もないような場所で、どんな店があるのかと思ったが、看板も出ていない。雑居ビル、それもこぢんまりとした建物に、青柳は躊躇いもなく入っていく。

 本当にこんなところでお茶が飲めるのか。というより、思いっきりいかがわしい店でもおかしくない。

「まともな店だよね?」

 四人も乗ればもういっぱいになりそうな小さいエレベータに乗り込み、最上階のボタンを押した青柳が僕の質問に小さく笑った。

「まともすぎる店だ」

 まともすぎる、とは妙な表現だが、とにかく、もうエレベータは動き出している。

 軋んだ音を立てて、エレベータのドアが開き、目の前には短い通路。小さい雑居ビルのワンフロアを、さらに三つに分けているようだった。

 手前にある二つのドアには何の表札もないし、どう見ても空いている。貸事務所か何かだろうとは思うけど、やや不気味かもしれない。

 奥の一つの扉だけは、控えめな装飾がされ、その前に小さな看板がある。

 そこには「俗典舎」と書かれていた。営業時間は十一時から十八時ともある。腕時計を見ると十七時になろうというところで、まだ余裕がかろうじてある。

「なんて読むの?」

「ぞくてんしゃ」

 なるほど、ストレートじゃないか。

 青柳やゆっくりとドアに近づき、引き開けると中に首だけを突っ込み「空いている?」などと訊ねている。妙な質問だが、それを疑っている間に青柳がこちらを向く。

「運良く空いている。入ろう」

 恐る恐る中に入るしかない。

 ドアを抜けると、柔らかい匂いが漂ってくる。紅茶の匂いだ。それとこれは、インクと紙の匂いだろうか。

 室内は薄暗くて間接照明がいくつもあるのに、スポットライトのように明るいのはテーブルとカウンターの部分だ。

「いらっしゃいませ」

 そう言ってカウンターの方から女の子がやってくる。メイド服という感じではない。真っ黒いワンピースに白いエプロンで、それっぽい感じだけれど、特別な趣向はないようだ。僕としてはその方が助かる。

 田舎の出なので、メイド喫茶どころか、洒落た喫茶店にすら気後れする僕だった。

 青柳は店の奥へ行ってしまうが、僕はウエイトレスらしい女の子をぼんやり見ていた。店の仕組みを知りたいのが一つ、もう一つはその女の子がかわいいから、という身も蓋もない理由だった。

 十代なのは間違いない。背が低く、童顔、二つに結ばれた長い髪の毛が真っ黒なので、高校生だろうか。

「初めてなんですけど」

 あまり女の子と話したことがないので、しどろもどろに、どうにかこうにかそういうと、ウエイトレスは自然な仕草で微笑んだ。

「あちらの席をご利用ください」

 示されたのは二人が向かい合うだけの小さなテーブルである。もう一つ、同じ席があるけど、そこにはすでに男性が二人いる。それぞれに本を読んでいた。机の上にはティーカップと、空の皿がある。

「メニューはあります?」

「当店では提供しているものが一つしかないので、メニューはございません。値段は五百円です」

「その、出てくるものは、あー、どういう内容なんですか?」

「今日の紅茶と、今日のおやつです。おやつは今日はクッキーですね」

 紅茶とクッキーで五百円か。少し高いかな。しかし今更、店を出るわけにはいかない。

「おい、十束」

 店の奥から青柳が控えめな声で呼びかけて、手招きしてくる。

 そちらへ行くと、カウンターの陰になっていた空間が見えた。

 本棚だ。背丈ほどのものが三台、並んでいる。びっしりと本が並び、一千冊はゆうにあるだろう。

「ここは本を読む店さ」

 得意げに青柳が言った。

「書斎喫茶店なんだ」

 書斎喫茶店……?




(続く)

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