第8話 水色
「……ただいま」
家のドアが史上最高に重く感じる。まるで鉛製にでもなったみたいだ。
気を病むと身体まで辛くなると言うのは本当らしい。
そして、記憶がぼやけている。
クラス日誌の提出が遅くなって心配した安東先生が教室にやってきたところまでは、はっきりと覚えている。その後、堀之内さんや安藤先生に、大丈夫とか抜かしておいて俺には、どうやって家に帰ってきたかの記憶が薄らとしかなかった。
今も頭の中に
兎にも角にも、気持ちを整理したい。
そう思うより先に、身体は自然と自分が一番落ち着ける場所、俺の部屋へと向かっていた。
「――っ⁉」
部屋に入ると無意識に鞄を手放して、俺はベッドの縁に座り頭を抱えて俯く。
とぼとぼと歩いてきたような記憶はあるし、事故に遭わず無事に家へ帰って来れたのだから、問題はないはず。
だけど、記憶がはっきりしないほど追い詰められていると言うのは、堀之内さんが俺がモテると言っていた推測を認めているようなものだ。
俺は、堀之内さんの推測に反論できるほどの頭脳は持ち合わせていないし、ラブレターやなどの状況証拠、当事者の証言を鑑みれば、鵜呑みにする他ないだろう。
「……どうすりゃいいんだ」
気が重い。
いっそのこと、堀之内さんと本当に付き合ってしまえば、丸く収まるんじゃないかと言う邪な発想をしてしまう。それは、堀之内さんを俺の都合の良いように利用しているだけだ。彼女に失礼で済めばいい、心に深い傷を負わせてしまう。
童貞の発想だと非難されようとも、俺は誰か傷つけたくないし、自分自身も傷つきたくない。
もはや何をどうするのが正解なのかもわからない。
こんなヘタレなんかを好きな人なんて、これ以上はいないはずだ。そうに違いない。
「れ、れれれ蓮人、あの……」
すぐ傍から乃蒼の声がする。
声には驚きが含まれていた。自分でも虚ろとしている自覚はあるから、驚かれてしまっても無理はないだろう。
乃蒼のおかげか、俺は妄想の世界から現実に引き戻される。
「……ああ、ごめん。家に帰ったら手を洗わなきゃな」
どんなご時世であったとても、帰宅したらすぐに手洗いうがいはするべきだ。衛生面でも、健康のためにも必ずしなければならない。
俺は洗面所に向かうために、立ち上がる。
「いつも俺が乃蒼に対して言ってることなのに何やってんだろ……はあ」
「ほ、ほほほほほほ本当に何やってんのよ⁉」
そもそもだ。
俺の部屋には本来いるはずのない、乃蒼の声が近くからした時点でおかしいと思うべきだった。
「ん?」
立ち上がった俺の視界に入ってきたのは、家具や内装をピンクと白を基調に統一された、かわいらしい部屋。俺みたいな男子高校生の部屋だったら、ちょっと引かれてしまうようなファンシーな印象だ。
約十年の間に染みついた癖で、この部屋に自然と移動してしまったが、今ここは俺の部屋じゃない。
乃蒼の部屋だ。
部屋の主、乃蒼を見てしまった俺は思わず叫んでしまう。
「うああああああああああああ」
それから俺は、乃蒼から視線を逸らすことも、指一本動かすことすらできなくなってしまった。
目に飛び込んできたのは、日焼けのしていない透き通るような色素の薄い白い肌。華奢でいて滑らかな肢体。そんな乃蒼は半裸と言える状態で、身に着けているのは水色の下着だけ。
言葉にするのは憚られるが、俺は見惚れてしまっていた。
「な、ななななんで、あたしじゃなくて蓮人が叫んでるのよっ⁉」
乃蒼の制服は脱ぎ捨てられ、床に散乱している。
俺が部屋に入った時に、乃蒼は着替え中だったようだ。
今さら、着替える予定であったと思われる部屋着っぽいで布で乃蒼は身体を隠そうとしているが、圧倒的に面積が足りていないから、逆に……。
俺は悪くないのだ。部屋を勝手に入れ替えた奴が悪い。
そうだ。そうしたい。そうでないと俺が乃蒼に殺されてしまう。
だけど、状況からして無意識のうちとは言え、乃蒼の部屋に入ってしまった俺が全面的に悪い。
「じ、じろじろ見てないで、早く出てって⁉」
顔面に投げつけられた服を投げ返し、全速力で俺は乃蒼の部屋から撤退する。
「ごめんなさい、手洗ってきますっ」
取り敢えずは、乃蒼が全裸じゃなくて助かった。いくら乃蒼相手でも全裸だったら、流石に顔を合わせづらくなってしまうところだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
もう駄目かもしれないと、俺は夕飯の後、自分の部屋の隅で膝を抱えながら己の置かれた状況を嘆いていた。
膝の匂いを嗅いだだけで、問題が解決できたら人間苦労しない。
もはや、俺は自分が置かれている状況に、陶然と酔いしれているだけだろう。
強力な免罪符が欲しい。
ドンドンドンッ。
ずっと無視していたが、先ほどから俺の部屋のドアを強くノックする人間がいる。
「ノックとか要らないから、入ってきていいよ」
ドアがゆっくりと開く気配がして、それから動きがない感じだ。
仕方なく振り向くと、ドアの隙間から中を伺うように蒼い瞳が覗いている。
「れ、蓮人……」
ナマケモノも驚くほど、超ゆっくりと全身を現した乃蒼は、もじもじとしていてちょっと顔が赤い。
もしかして乃蒼さん、さっきのこと滅茶苦茶意識してないか?
ここは俺が乃蒼を意識させないように元気づけてあげないと。
「大丈夫。俺は何とも思ってないから、乃蒼に興味なんてないから」
「逆。それは、見られたあたしが言う台詞でしょ⁉」
じゃあ逆にしないといけない。
これでも頑張ってフォローしようとは思ってはいるのだ。でも、俺の頭はまともに回ってくれていない。
「ええっと、水色のやつは乃蒼に似合ってた」
「にゃああああああ⁉」
「思わず見惚れ……何言ってるんだろう、俺は……?」
誰ですか?
ご機嫌を取ろうとして、乃蒼を耳まで真っ赤にさせた馬鹿は?
下着姿を見られて意識してる人に、さらに意識させるような発言して状況を悪化させるような馬鹿は?
「俺が悪かった。意識させないようにしようと思ったつもりが、余計なこと言った」
悪いと思った馬鹿が頭を下げる。
自分でも狂気に満ちた発言だったと思う。でも、乃蒼を見ていると下着姿が浮かんでしまうんだ。
「べ、べべべ別に何年か前まで、一緒にお風呂を入ってたじゃない。今さら、下着姿を見られたくらいで意識なんてしないわよっ⁉」
そうだよね。
あの時は小さかったから何の意識もしてなったもんね。
「ああよかった。俺が余計なこと言ったせいで、乃蒼が口きいてくれなくなると思ったんだけど、これっぽっちもそんなことはなかったんだね。いやあ、俺の勘違いでよかった」
「んな訳あるかっ⁉」
「ですよね。痛い痛い、ごめんなさい」
乃蒼が俺の背中の贅肉をつまむ。
大して贅肉がないせいで、軽くつままれただけでも結構痛い。
「これで許してあげる。それよりもあたしは、蓮人が悩んでるみたいだったから、心配で……」
若干視界を歪ませながら考える。
誰にも俺が悩んでいることは話していない。でも、俺はポーカーフェイスは得意じゃないので、わかる人間にはわかってしまう。
夕飯の時にも、親父やフェリシアさんに元気がないことをつっこまれていた。乃蒼が一切目を合わせてくれなかったので、喧嘩しているだけだと思われたようだ。
親に相談したい内容ではない。
でも、乃蒼にだったら……。
「い、一応、あたしの方がお姉さんなんだから、困った時はいつでも頼ってよ」
蜂ヶ峰学園四大美少女の乃蒼だったら、告白された経験は山ほどあるだろうし、良いアドバイスをくれるかもしれない。
「乃蒼ってさ、好きな奴いるの?」
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