第2話 春山紅葉との邂逅 前

 そして三日後。


 なにを思ったのか俺はその日、屋上で昼飯を食うことにした。四時限目が終わるや否や弁当箱を引っ提げ、俺はひとり教室を出ていった。普段は教室で天城と食べているのが、この日に限ってこんな行動に出たのは、おそらく昨夜ゆうべ見たアニメの影響だろうと俺はのちに結論づけている。


 そのアニメはよくある学園もので、屋上で弁当を食っていた主人公がひょんなことから学年一の美少女と知り合うようになりめくるめく非日常的な生活へと進んでいく……というありきたりなストーリーのものだったのだ。


 こんなものに影響されて屋上へ行くなど本当にどうかしているとしか思えない。思えないが、どうかしていた俺は影響されてしまったのだ。まあ一言でいえば、このときの俺は憧れていたのだ。

 

 そのめくるめく非日常の世界に。


 ——まったく、そのおめでたい頭をぶん殴ってやりたい気分だ。いったい隣の芝は青く、隣の花は赤く見えるものなのだ。あぁ今の俺には昼休みに天城と駄弁だべっていた生活が恋しいぜ、まったく。


 けどまあ幾ら嘆いたところで過去は変えられるものでもない。覆水は盆に返らず、さいは投げられたのだ。


 このときの俺はなんのうれいもなく、それどころか遠足前日の小学生みたいな気持ちをさえ持って屋上への扉の前までたどり着いた。


 もちろんアニメと違い現実の学校の場合は、安全上の理由などからほとんどの学校では屋上への生徒の立ち入りは禁止されている。とうぜんそれは俺たちの通う賀茂橋かものはし高校でも同じで、屋上への扉には頑丈な錠前が付いており、鍵をもっていない俺は中に入れるはずはない。


 だがちょっとした工夫を凝らせば簡単にこの錠前は外れるのだということを俺は知っていた。ちょうど去年の今ごろ、天城と一緒に偶然それを発見したのだ。以来、ときたまこっそり昼休みや放課後に侵入しては悪行の限り(トランプやチェスなど)を尽くしていた。


 そしていま屋上への扉の前に立つ俺の視線の先にも、当然、あの純黒の錠前がにぶ光沢こうたくを放ちながら堅牢な雰囲気をかもし出している……ということはなぜだかなく、いつもは屋上へ侵入しようとする狼藉者ろうぜきものこばんでいるはずのその錠前は、まるで最初からそこにありましたとばかりに床に転がっていた。


 なぜ? もしかして先客がいるのか? 


 俺は首を傾げながらもそっとドアを押し開けて、中をおそるおそる覗いてみた。こんなとき、普通はまず中にいるのは教師じゃないかと考えてしかるべきだが、ボーイ・ミーツ・ガールへの期待に浮き足立っていた俺はそんなことは微塵みじんも考えなかった。もっとも、この場合それは杞憂だったのだが。


 ——果たしてそこには一人の女子生徒がいた。


 転落防止用の柵のそばで、空に向かって雨乞いをしているみたいに両手をまっすぐに伸ばしてうんうんと唸っている。背後からではその表情はうかがい知ることができなかったが、その背中から女子生徒のとても真剣な気配が伝わってきた。


 なにしてんだ、こいつ? ストレッチか? それともほんとに雨乞い?


 そんなことを思いながら扉をくぐり抜け、屋上のなかほどまで進んで行っても女子生徒は俺という乱入者に気がつくことはなく、もしくは気づいていて無視しているのか、一心不乱に空へと両手を伸ばし続けていた。


 ああ、こんな得体の知れない少女など無視すればいいのに、なぜか俺は声をかけてしまうのだ。いやまあでもこれはしょうがないか。なぜなら考えてみてほしい。俺はこの日、まさにこういうシチュエーションを望んで昼休みにわざわざ屋上まで足を運んだのだ。いったい一億の財宝が手の届く場所にあるっていうのに、それに手を伸ばさない者など存在するだろうか? 断言できるね。——いるはずがない! と。


 というわけで俺は声をかけてみた。


「なぁ、あんたなにしてんの?」


 返事はない。聞こえなかったのかと思い、もう一度言ってみることにした。


「なあ、あんたなにしてんだよ?」


 返事はない。女子生徒はうんうんとゾンビのように唸り続けている。


「なぁ——」


 三度目の声を掛けたところで女子生徒は両手をあげたままバッと勢いよく顔だけを振り向かせた。あらわれたその顔はクレオパトラもかくやというぐらいのもの凄い美少女だった。俺が今まで見てきた女子の中でぶっちぎりナンバーワンの美少女。だがそんな美少女は、眉間にシワを寄せてまるでカエルを見るヘビのような目付きで俺のことを睨みつけ鋭い声で叫んだ。


「——話しかけないでくださいッ! いま宇宙人の侵略を妨害している最中さいちゅうなんですッ! 黙ってて!」


 言い終わると、少女はまた空へ向かってうんうんと唸り始めた。


 ……ふむ。なるほど、つまりアレだ。いま仕事中だからあっちいっててね、ボク。ということらしい。


 俺はその通りにした。君子危くんしあやうきには近づかずだ。触らぬ神に祟りなしとも言う。


 されど俺は屋上からは出ていくことはなく、少女からちょっと離れたところの柵にもたれかかって弁当を食いながらぼんやりとそいつのことを眺めていた。せっかく屋上まで来たんだから弁当ぐらいは食っていこうという意地と、もしかしたら本当に目の前の少女と何かが起こるかもしれないという期待が入り混じっての行動だった。


 観察しててわかったのは、どうやら彼女は一年生らしい(これはリボンの色を見れば分かる)ということと、ショートカットの髪にほんのりと赤みがかっている(染めているのか?)ということと、やはり楊貴妃ようきひもかくやという超絶美少女だということぐらいだった。


 そのまま五分か十分ぐらい時間が流れて、俺が弁当を半分ほど食い終わった頃になってようやく少女は両手を下ろした。そして「はぁ、はぁ、はぁ……」とフルマラソンを走りきった人みたいに息を荒げながらその場にストンとしゃがみ込んでしまった。


 それでまあ、俺はとりあえず、話しかけるのは弁当を食べ終えてからにしてみようと思った。少女が息を整える時間も必要だろうしな。決して先の眼光を思い出して怖気おじけついたというわけではない。本当だぜ? 本当に弁当を食い終わったら話しかけるつもりだったんだ。


 だが期せずしてその計画は早められることとなった。


 なぜなら、


 ——ぐぎゅるるるぅぅ〜〜〜、


 という盛大な音が屋上に響き渡ったからだ。はじめ俺はそれを変な鳥のなき声かと思い正体をつかもうと空を見上げていたが、よくよく考えてみると、それは腹が鳴る音だと気づいた。もちろん俺のじゃない、おそらく少女のだ。


 それで視線をくだんの少女に戻すと、果たして少女はしゃがみ込んだまま腹を押さえていて、ぷるぷると入浴後の芝犬のように頭を左右に幾度か振ってから、なぜだか俺のことを見てきた。正確に言うと、俺の食っている弁当に。何かを訴えかけるようにじーっと見つめてくる。


 ふむ。


「……よかったら食うか?」


 そう言うしかないじゃないか。幸いまだ弁当も半分は残っている。俺は少女に向かって歩いていき、弁当箱と箸を目の前に差し出してやった。


 少女はしばらく知らない人から声をかけられて躊躇とまどう小学生のように逡巡しゅんじゅんしているようだったが、空腹には敵わなかったようで、俺から弁当箱と箸をおずおずと受け取ると犬のようにがつがつと食べ始めた。


 それは本当に良い食いっぷりで、あっという間に俺の食べかけ弁当を完食してしまった。


 そして少女は空っぽの弁当箱をしばし見つめたのち、俺のことを催促さいそくするような目で見上げてきたので、もうねえよ、と俺が首を振ったら、チワワのようなしょんぼりとした顔を浮かべた。


 まったく、ずるい奴だよと俺は思った。いったい誰が女の子からこんな表情で見つめられて放って置けるというのだろうか。たとえ宇宙人だろうとそんな奴は存在しないだろうね。それで仕方なく俺は購買までひとっ走りすることになった。昼休みもずいぶん過ぎたが、まああんぱんくらいはまだ置いてあるだろう。

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