第7話.フリート・カスティネッタ ―2


 論文をキリの良いところまで書き終えたところで、タイミング良くお腹が鳴った。


 そういえば結局、昼は何も食べていないままだった。時計を確認すると、時刻は既に午後七時に近い。

 窓の外を見てみると数時間前よりも天気は荒れ狂っていて、森の木立がなぎ倒されるように揺れている。遠くからは落雷の音まで響いていた。今夜は久方ぶりにひどい嵐になりそうだ。


 僕は部屋を出た。窓の外を見ていた母がすぐに気がつき振り向くと、朗らかに笑う。


「フリートさん、ランチも食べてなかったでしょう。お腹空いたんじゃない?」

「うん」

「そろそろディナーにしましょうか。リオーネちゃんも一緒よね?」


 母にそう訊かれ、僕は「え?」と固まった。


「僕は……一緒じゃなかったけど」

「え?」


 目をぱちくりとさせた母が、慌てて他の部屋のドアを開ける。

 先ほどまで座っていた父まで立ち上がっている。僕も雰囲気に呑まれるような形で他の部屋を探し回った。リオーネ、リオーネちゃん、と両親が名前を何度も呼ぶが返事はない。


 妹は――どの部屋にも居なかった。

 植木鉢の一つでも強風で飛ばされたのか、外から何かが砕け散るような音が響く。


 母は青い顔でふらついた。

 父はそんな母の肩を支えると、立ち尽くす僕に向かって言う。


「離れの使用人を連れて、私が外を見てくる。フリートはここでロゼと一緒に待っていなさい」


 僕が答えないでいると、


「最後にリオーネを見たのは何時頃か分かるかい?」


 と父が優しい声で訊いてきた。

 僕が森だ、と一言どうにか答えると、父は軽く頷き、コートを着て外に出て行く。

 僕はその背中を見送り――


「フリートさん?」


 母が後ろで驚いているが、説明する暇もない。

 雨風を凌ぐためのコートを素早く身にまとい、ランタンを手にして。

 その他の装備を用意する余裕もなく別荘を飛び出すと、僕は一直線に森へと向かった。


 ……まさか、あの小屋に居るわけがない。

 あれからもう四時間も経っている。そんなところで大人しく待っているわけがない。

 そう思いながらも僕は必死に走っていた。身体がずぶ濡れになるのも、泥が全身に跳ねるのも構わずに手足を動かし続ける。


 そうして辿り着いた小屋の扉を、思い切り開け放ったとき……僕は本当に久しぶりに、その名前を呼んだ。


「……リオーネ!」


 妹は暗い小屋の中に居た。

 まんまるに見開いた目で僕のことを見上げている。

 しかしその青白い頬を、大量の涙が伝っていることに気がつき……僕の心臓は静かに凍りついた。


 ――こんなところに、一人で。


 怖くなかったはずがない。妹は小屋に取り残され、嵐の音を聞いて恐怖に怯え、ここで孤独に泣いていたのだ。

 僕の所為だ。僕が課題に夢中になって約束のことを忘れていたから、それで妹は……こんなところで、たった一人で怖い思いをしていたのだ。


 それなのに妹は流れ続ける涙をゴシゴシと乱暴に拭うと、僕に向かってにこっと明るく笑いかけた。

 どんな風に責められてもおかしくないと思っていたのに、その無邪気な表情に僕は衝撃を受けてよろめく。


「ここでずっと……僕を待ってたの?」


 妹は僕が問うと、曇りなく笑って頷く。


「はいっ、もちろんです!」


 今度こそ僕は絶句することになった。

 そうして立ち尽くすだけの僕を追い越し、使用人達が小屋に入っていく。

 その様子を、僕は呆然と眺めることしかできなかった。




 しばらく、僕はまともに妹と話すことができなかった。

 元々、仲の良い兄妹でもないのだからそれ自体はいつも通りなのだが、僕から妹を避け、なるべく会話をしないように務めた。

 正直、どんな風に接するべきなのか分からなくなっていたのだ。


 旅行中の件は、僕の口から両親に事実を話し謝罪した。

 二人とも事情は承知してくれたが、「話してくれてありがとう」と言われただけで僕には大したお咎めもなかった。しかし、僕にはそれが心苦しかった。

 妹はといえばしばらくの外出禁止令を出され、おまけに習い事も増やされててんやわんやらしい。それに対して僕は自由に外に出られるし、魔法省に勤務する父の友人に気に入られ、しょっちゅうそちらの屋敷まで遊びに行っていた。


 そして僕が妹と顔を合わせるのを避けるようになったのには、もう一つ理由がある。

 旅行先から帰ってきた僕の元に、ルーシー・ソウ――カスティネッタ家の元メイドの彼女から、一通の手紙が届いていたためだ。


 僕は彼女に手紙なんかは送っていなかったし、そんなことは初めてのことだったので驚きながら目を通した。

 手紙には彼女の近況と共に、こんなことが綴られていた。



「実は先日、妹君のリオーネ様からお手紙をいただきました。


 お手紙の内容はといいますと、私がメイドを辞めた経緯に関する謝罪が丁寧に書き記されたものです。

 ですがリオーネ様が私に謝る必要など何一つとしてありません。私が壺を割った時リオーネ様は偶然お近くにいらっしゃいましたが、「自分が壺を割ったことにしてもいい」と私を庇ってくださったくらいですから。

 もちろんそんなお誘いを受けるわけにいかず、私はリオーネ様からの申し出を固辞しました。


 手紙には、私が望むのであれば再びカスティネッタ家に仕えてはもらえないか、その際は自分が父と母に話を通すということまで書かれていました。

 私は現在、婚約者も得られ地元の町で幸せに過ごしています。ですから有り難いと思いつつ申し出は断らせていただきましたが、私は正直に申しますと、その手紙を読んで涙がこみ上げてしまったのです。嬉しい涙であり、不安の涙でもありました。


 公爵家の方と言えども、リオーネ様はまだ七歳の、遊び盛りの女の子です。

 そのような方が、既に屋敷を去った使用人に対し遠方まで赴けない旨を謝罪する必要なんてありません。


 失礼を承知の上で申し上げます。

 フリート様の目から見たリオーネ様は、お元気でいらっしゃいますか。毎日、笑っていらっしゃいますか。もうお側にいられない私は、それが不安で不安で仕方が無いのです」



 僕はその手紙を何度も読み返した。

 驚きながら、それでも信じられず『リオーネに脅されてるのか?』というような返事を書いた。するとルーシーの返事がまた届き、丁寧な言葉ではあったが、そこには『リオーネ様は、フリート様が思うような方じゃありません』と怒りを感じるメッセージが綴られていた。


 どうやら本当に、ルーシーの手紙の内容は真実だったらしい。

 妹は確かに変わったのだ。高慢ちきな上級貴族の娘から、どこか大人びたところのある少女に。

 人を気遣い、人の痛みが分かるような子に。そしてもしかすると、ルーシーの言うとおり――元々、妹にはそういう所もあったのかもしれない。欠点が多すぎてほとんどの人には見えないものだが、あのメイドにはちゃんとそれが分かっていたのだ。




 ――そして僕は今、妹と……リオーネ・カスティネッタと、向き合って話をしている。


 向き合っているといっても、立っている僕に対してリオーネはベッドに横たわった状態だ。

 ほんの一時間ほど前のことだが、廊下ですれ違った時に妹は突然気を失ってしまった。

 僕は慌ててそんなリオーネを自室に運んだ。小さな身体は異様に熱くて、その指先には一本残らず包帯が巻かれていた。刺繍が上手くできず苦心していると母がぼやいていたから、その怪我だろう。

 途中で会った使用人が代わろうとしてくれたが、何故か譲る気にならずそのまま運び込んだ。リオーネには何となく、使用人が運んだのだと嘘を吐いたが。


 僕はルーシーからの二通の手紙をリオーネに見せた。

 リオーネは上半身だけをベッドから出して、淡々と手紙を読んでいる。僕は熱で赤い顔を見下ろしつつ、静かに眉を寄せた。


『どうしたら今のわたくしのこと、ちゃんと見てもらえるでしょう?』とリオーネは森の中で言っていた。その言葉の意味がようやく理解できた気がする。

 本当に――ただ、僕に理解してほしかったからなのだ。ただそれだけのことだった。

 そのためにこの子は何時間も嵐に耐え、泣きながら一人で待ち続けていたのだ。


「ごめん、リオーネ」


 僕がそう告げると、リオーネがゆっくりと顔を上げた。


「僕はルーシーの件を誤解して、君に冷たい態度を取ってた。それにこの前の旅行の時もそうだ。君はずっと嵐に怯えながら小屋で待ってくれていたのに、僕は約束を破った……」

「そんな。お兄様は何も悪くありませんわ」


 それでもやっぱりリオーネは、何でもないように首を横に振る。

 僕はますます居たたまれない気持ちになった。


「僕は君にどう償えるだろう、リオーネ。何をすればいい?」


 しかしそう切に訴えると、数秒が経った末に……リオーネがぽつりと言った。


「……頭を撫でてほしいです」


 ――頭? 撫でる?


 当初、僕はその言葉の意味がよく分からず沈黙した。するとリオーネは次第に、恥ずかしそうにもじもじし始めた。

 だけど今になって思えば、一度もこの子に兄らしいことをしてあげてない気がする。意外ではあったが、それがリオーネの望むことなら……僕はせめて、兄らしくその願いに応えてやるべきかもしれない。


「今日は疲れたろう。もう、このままお休み」


 額に汗で張りついた前髪を払ってやる。それから、メイドが置いてくれた水桶にタオルを入れて軽く絞ると、それで顔の汗をそっと拭ってあげた。

 それから、僕は何度もリオーネの頭を撫でた。

 父や僕のものより色素が薄めの空色の髪は滑らかで指通りが良い。そうして何度も撫でている内に、リオーネは気持ちよさそうに寝息を立て始めた。


 僕はそれでゆっくりと手を離した。頬には自然と緩い笑みが浮かぶ。

 そう、嫌いだったはずの妹を見て、僕は笑っていた。



 久しぶりに、ちゃんと妹の顔を見た気がした。

 そして数年ぶりにしっかりと見つめた僕の妹は――ビックリするくらい、可愛かったのだった。



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