不能共らない
もうじき引っ越すのだが何かと面倒で、お前がやっておけと相手にすべてを任せ外出した。春先の空はどこか薄い。新学期前には後にする土地を歩きながら、結婚ね、と誰に聞かせるでもなく呟いた。
行き付けのスーパーを何となく素通りした。多少の感傷が俺にもあるのかもなと思ったのは一瞬で、実際はただの気まぐれとあのスーパーの弁当に飽きた事実が合わさった必然だ。
辿り着いた別のスーパーは多少値段の張る旨い弁当屋がある。そう来ることはないため少し店内を歩き回る羽目になったが、途中でペットボトルの緑茶は回収できた。
弁当屋は店頭にいくつも弁当を並べている。唐揚げ弁当の気分だった。結婚すればあっちが何かしら料理を作って待つ日々なのだろうが、それ自体は悪いことではない。一年か二年前、風邪を拗らせてろくに買い物も行けず、職場の飲み会の約束もすっ飛ばし、飲み会直帰だった後輩の畑山に食料を持ってこさせた日を思い出す。あれはキツかった。風邪もだし、学年主任が同僚を捕まえて飲ませまくっていただの飲み会の隣席にいたグループに清楚な美女がいただのと、話し続ける畑山も中々面倒で症状が悪化した。
溜め息で回想を終わらせた。さっさと買って公園辺りで食って帰ろうと先を決めつつ、ひとつだけ残っていた唐揚げ弁当に手を伸ばす。
「あ」
真横から声が飛び指先を止めた。隣には長い髪を後ろで丸くまとめた、静かな表情の男がいた。
「……何ですか?」
問えば、すみません、と謝罪が挟まった。
「唐揚げ弁当、出来れば譲って頂きたいのですが……」
「ああ……」
どうぞという代わりに足を引いて相手を促す。どうしても唐揚げじゃなければならないわけではない。隣にあった日替わり弁当は焼き魚に茄子の煮付けにきんぴらごぼうの和食弁当だったため、そちらを手に取り会計に向かおうとする。
それを長髪は何故か引き留めた。唐揚げ弁当を持ったまま、ありがとうございます、と丁寧に頭を下げてきた。
「……妻が、これやないと嫌や、って」
安心したように滲む関西弁と声色に苦笑しそうになる。ずいぶんわがままな女を飼っているらしいが、俺も恐らく似た状態にはなる。クソババア曰く令嬢らしい俺の結婚相手は、顔を合わせた初日から中々のわがままを言ってきた。
先が思いやられる。奇妙な連帯感と去る土地での一期一会に、今度こそ若干の郷愁を見出だした。
「朝陽さん、ですか。どの辺りにお住まいなんですか?」
「あっちの、クソ安いスーパーの近くですよ。そちらは?」
長髪は清瀬ですと名乗ってから、俺のアパートとは別の方向を指差した。
弁当のみの購入だったこともあり、俺と清瀬の足取りはほぼ同じだった。スーパーを出て何とはなしに並んで歩き始めたが、いつのまにか辺りはずいぶん陽が落ちており、薄い色の夕焼けが空の下を這っていた。
「清瀬さんの嫁さん、唐揚げが好きなんですか」
「いえ、今日はこれやないと嫌、って言われましたが、いつもは俺が作ります」
「へえ? 主夫ってことですか?」
「仕事もしてますが、妻も疲れてますし、出来る限りは俺がやります」
「それは凄いな……愛妻家なんですね」
清瀬は何故か戸惑った顔をした。それから口角を引き上げた。作り笑いだとわかったが、偶々帰路を共にしただけの身だったし、特に追わずその話を切った。
代わりに自分の話を少しだけした。もうすぐ実家のある県に戻り結婚すること、見合いのようなものだったが概ね納得はしていること、他人とまともに暮らすのは初めてだということ。
「新しい生活は不安ですか?」
清瀬は前方のどこか、触れられない位置にあるなにかを見つめるように目を細めながら問い掛けてくる。
「不安っつうか……面倒ですね、正直」
「面倒……」
「ええ。……まあ、ダメになったらなったで、それでもいいんですよ。その時はまた別のところに移り住んで適当に弁当買いながら暮らします、そんでそのうち適当に死ぬだろ、一生そんな感じで適当にやってりゃあ一番楽だ、って思ってます」
一期一会の魔力が手伝い、つまらない話が口をついた。空はじわじわ暗くなる。ふっと空を仰いだ瞬間、清瀬はすっと足を止めた。
数歩進んでから振り向いた。薄い闇の中に佇んだまま、長髪長身の男は、どこか場違いな弁当の袋をがさりと鳴らした。
唐揚げ弁当が俺の方へと差し出されていた。意図がわからず何も言わないでいると、よければ差し上げます、と提案された。
「……嫁さんが食いたいんじゃねえのか、それ」
つい敬語が剥がれる。清瀬は首を振り、いいんです、と何故か諦めたように言う。
「俺やって多分、朝陽さんみたいなもんです。俺には妻しかいません、妻しか俺を受け入れへん理由がある。俺も彼女を愛してます、でもなんやろう、これは朝陽さんにあげたいです」
「……最後の方説明が雑だろ」
「上手く言えん、とにかくあげます」
がさりと音を立たせながら唐揚げ弁当を押し付けられる。
「朝陽さん、貴方男前なんやし、いろんな未来があるんやないですか」
「なんだそりゃ、結婚は墓場っていう既婚者なりの激励か?」
「ええですね、そうします。この唐揚げ弁当は香典や」
「ご祝儀だろそこは」
呆れつつも弁当を袋ごと受け取った。代わりにと日替わり弁当を差し出すが、清瀬は首を振って別れ道を指差し、俺はあっちです、と言いながら踵を返した。
「清瀬」
ボロボロ敬語が剥がれていく。奇妙な感覚だった。振り向いた清瀬は首を傾けながら笑って、多分それは作り笑いじゃなかったが、俺は結婚前から墓場にいますよ、とか妙なことを言ってから、暗闇の多い方にすっと全身を滑り込ませ、数秒後には足音すら夜に飲まれて気配は唐揚げ弁当にしか残らなかった。
帰宅して日替わり弁当を食べた。唐揚げ弁当は何故か指が伸びず、冷蔵庫にも入れる気にならず、机の上に置き去りになった。眺めていると清瀬を思い出したが闇に佇むぼやけた輪郭は上手く象を結ばない。それなりに付き合える友人になれるような気さえしたが、俺はすぐこの地を去るし連絡先も知らないし、引っ越しの前日には当然ながら弁当は黴が生えた。
ゴミ袋に弁当を突っ込み口を縛った。これからのことを少しだけ考え、すぐに面倒になり思考を閉ざして、どうでもいい、どうでもいい、さっさと諦めて適当に過ごせば楽だし手っ取り早いし、俺は小学生の頃からこうだっただろうと思う片隅で、悲しげに作り笑いをする男の姿が浮かんでいた。
連絡先くらい聞いておいても良かったなと実家に向かう特急を待ちながら考えた。隣には嫁予定の女が立っており、何かしら話し掛けてきたため思案はすぐに打ち切って言葉を返した。美人というよりは可愛いといわれそうな女だ。特に不満はないし、滞りなく愛せるだろう。面倒なことさえなければ、と枕詞もつけたいが、離婚調停の方が面倒か。
事故で到着が遅れるというアナウンスが不意に響く。出そうになった舌打ちを誤魔化しながら雨でも降りそうな空を見上げたが、特別なんの感慨もなくて無味だった。
加奈子は家から消えて、行き先はわからないが私に飽きて愛想を尽かしたという事実だけはよくわかり、捨てられたからにはもうどうでもいいな、適当に死んでしまおう、楽になりたいと、次々に浮かべてからふらふらと家を出た。
鉄橋の下に伸びる線路は定期的に電車が走る。真下を通る時には橋ががたがた揺れて踏み場があやふやになる。視界もぼんやりしていた。私は相当疲れているようだった。
加奈子は他の男と消えたのだろう。部屋に高価なものが増えていた。あからさまに夜の帰りも遅かったが、加奈子は私が不能だから仕方がないと詰りながら清廉に笑っていた。金回りのいい男と知り合ったのだろうか、今更もう、聞くこともできない。
フェンスのない鉄橋から飛び降りるのは簡単そうだった。その前に何故だか思い出されたのは朝陽という一度しか話したことのない男だった。冷えた目で突き放した口調の愛想がない人だったが、私には少しだけ悲しく見えた。
朝陽さん、俺の香典は食べましたか。
縁起が悪いので捨てたほうがええかもしれませんが、貴方の好きにしてください。
そう考えていたのか呟いていたのかは判然としない。
どこか現実味のない現実を終わらせようと飛び降りてからのことはもう知らない。
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