後日談の後日談
海にでも行くかと言い出したので、この人は案外体育会系なのだろうかと思ったが、腕も完治しただろと続いたところで、ああこれは連れ出そうとしているのだなとやっと理解して、じわじわのぼったよろこびについ頬が綻んでしまった瞬間、じろりと横目で睨まれた。
朝陽と私はともに住み始め、それなりにうまくはすごしているのだが、このうまくがいつまで続くのかはわからない。私と彼のことなので、またすぐになにかしら問題に当たりそうな気はする。今は束の間の休息なのだろうか、もうワインボトルで殴られるのはごめんだった。
季節は夏だった。朝陽の提案に乗ろうかどうか迷い、なぜかといえば水着にはなりたくないという理由だったが、それはわかっているらしくて朝陽は旅行雑誌を投げ寄越しながら海鮮丼、と短く言った。海沿いでは新鮮な魚が食べられる。泳ぐのは俺も好きじゃない、と朝陽は冷えた目線で言う。この人の子供時代がふと気になった。ソファーに座る彼に歩み寄り隣に座ると、自然な動作で腰を抱かれた。
寄りかかりつつ、あなたはどんな子供でしたか、と問い掛けた。
「……あんまり学校行ってなかったな」
たっぷり間をとってから、溢すように話し始めた。
「そうなんですか?」
「ああ。でも家庭教師がつけられてたから、勉強自体はしてた。俺の友人だったやつが、俺のせいで引っ越しちまったことがあってな。それで、学校は行ったり行かなかったり……高校はまじめに通って、大学もさっさと家出るために講義をとりまくって留学やらも行って、金だけは出す親、ってとこにだけは甘えてた自覚があるが」
「子供なんやから、それはええでしょう」
朝陽は目を細めてこちらを見た。やさしげな眼差しだったので少し動揺する、鋭く獰猛な目つきのまま殴られ続けた日々が前世のように思えてくる。
「そんなところだな。言うほど覚えてねえよ、元々記憶力がない」
すっと視線が外されて、腰に回っていた腕も離れてゆく。
この人の場合、記憶力が低いわけはない。恐らく、自分に関する記憶があまりない、が正しい。
指摘するようなことでもないので口には出さず、朝陽の肩に額を押し付ける。ぐりぐりと擦り付ければ笑い声が耳に届いた。朝陽の腕が伸びて、私の髪を巻き取る仕草が下向きの視界に映る。
「思い出そうとしてもお前のことばっかりだ、最悪な二年だった」
顔を上げると今度は朝陽が凭れ掛かってきた。驚きつつもそろそろと抱き寄せ、そういえばこの人は年下だった、と今更考える。背中を撫でると腕が回ってきた。そのまま体重をかけられ大人しく転がれば、ふっと笑い声が聞こえた。
「お前の子供の頃の話は、聞かなくても大体想像つくな」
「まあ……そうやろな。いじめられた話とか、参考に聞きたいんやったら、朝陽さんになら話しますけど」
「問題起こしてクラス持ちじゃなくなったから別にいい」
朝陽はストーカーを撃退しようとして暴力沙汰を起こしたことになっている。大体その通りなのだが、現在ストーカーは朝陽の抱き枕になっているので、雨が降り続ければ地面は固まるものだなと感慨深くなる。
数十分、ソファーに転がったまま特に意味のない雑談をして過ごした。そのうちに朝陽が飽きたように身を起こして煙草を吸い出し、私も隣で一本咥えた。加奈子がいるころは部屋で吸うと恐ろしい目にあった、そう漏らせば横目で続きを促された。
今思い返せば、かなりきつく当たられていた。女性なので暴力に訴えることはなかったが、的確な言葉で私の精神を削り取っていった。不能であることを詰られると苛められた過去や醜い切除痕が過ぎって何もいえなくなる。加奈子はそれを充分わかっていて、私を散々扱き下ろしたあとは、私のためにきつく言っただけだとやさしい声色で囁いた。
ずいぶんな生活だったと今では思える。私の話を聞きながら朝陽は黙って煙草を吸い、潰してから小さく溜息を吐いた。
「ガキの頃、多分小学生くらいだが、親の気を引こうとして家出したことがある」
そうなんですか、私の相槌に朝陽は頷く。
「適当に電車に乗って、金だけはやっぱ小学校の頃から渡されてたから、いけるとこまでいった。当たり前だが警察に保護されて、家まで送り返された。親はどっちも何も言わなかったし、俺はそのときが最初に諦めたときだった、と思う。そこからがマジであんまり覚えてねえよ、父親の浮気相手に手出されそうになったり親の喧嘩を真横で聞かされてうんざりしたり、なにもかも最悪な破綻した家庭だったが、……そういや、もうだるいから死ぬか、生きててもしょうがねえ、って思ったことはねえな」
「諦めすぎとると、上も下もどうでもええからやないですか?」
私の返しに朝陽はなぜか機嫌が良さそうに笑った。
「ああ、そうかもな。偶々死ぬならそれでもいいが、偶々生きてるならまあそれはそれで、って頭だったかもしれない。今はそうでもねえんだけどな、俺が死ぬと発狂しそうなやつがいちまうわけだし」
「ああ、いますね。事故やった場合、朝陽さんを轢いたりした相手に粘着しそうなロン毛に心当たりがあるわ」
「大人しくしろごんぎつね。飼ってやってんだ、飼い主が消えても自分の世話はしろよ」
誰がごんぎつねや。飼われてもいない、この家は私の所有物件なのだからどちらかと言えば私が彼を飼っている。
無言の圧を受け取ったらしく、朝陽は口角を吊り上げてから労わるように私の髪を撫で始めた。
「そう怒るな、お前のメシは美味い。今はけっこう、楽しく暮らせてる」
「……、そ、そうですか?」
「ああ。金が足りねえってなったらお前からババアに言えば、まあ、出すだろ、お前がババアの命の恩人って位置にいることは、かなり有用だ」
昔ほどの苦手意識はなくなったのか、朝陽は自分から親、特に母親の話は口にする。
頷いてから持ったままだった煙草を捨てて、投げ渡されていた雑誌を開いて膝に置いた。ひょいと覗き込んで来た朝陽は、海じゃなくてもいいけどな、と挟んでから肩に顎を乗せてくる。
「夏休みになればお互い時間がとりやすいだろ。どうせなら出掛けるか、っていう提案だ。行きたくねえなら無理強いは」
「行きたいです。どこでもええけど、朝陽さんと出掛けたいです、一緒に」
「……そういうことなら、温泉宿でもとるか? 部屋風呂か貸切風呂のあるとこにすりゃあ、お前も人目気にしなくて済むだろ」
頷いて朝陽の頭に頬を寄せる。この人の汲み取り方がうれしくてたまらなかった。どうでもよくて過剰反応しないだけだったかもしれないが、私の体を馬鹿にすることが一度もなかったのは、この人だけだ。
なんだか泣きたくなって来た。朝陽は察したように顔を上げて、苦笑気味に触れてくる。今度宿でも調べるか。宥めるような台詞に頷いて、もう何も言わずにふたたび朝陽に寄りかかった。
二年間のことを断片的に思い出しつつ今現在目の前にいる朝陽の顔を見つめると、胸が詰まって仕方がなくて、迷惑ばかりかけてずっと怒らせ続けていた私が彼に少しは何かを分け与えられたのなら、この先にまたなにか思いもよらない事件が起こったのだとしても、恐らくどうにでもなる、どうにでもしようと前に向かえる言葉が浮かんだ。
朝陽は私を放り出すことはしないだろうと今は思える。それが途方もなくうれしくて、ありがたくて、朝陽さん、貴方の優しさはわかりにくいんですよと抵抗のように言ってみるが、彼は何も言わないまま私のことを抱き寄せる。
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