第四章:三姉妹を巡って

ハン! シャン!  暫くぶりだね!」


 永南がさりげなく私の背を押して振り向かせる。


ヒョンさん、お久し振りです」


 黒と藍色の長袍をそれぞれ着た、小さな蒼白い顔と手足の長い華奢な体つきで一見して兄弟と分かる少年二人と櫻霞が振り返った。


「おねえさんもご快気かいきおめでとうございます」


 幾分背丈が高く大人びた顔つきから兄と分かる、藍色の地の胸に鶴の刺繍を施した中華服の少年が深々と頭を下げた。


 すると、こちらは黒地に鮮やかな朱雀を刺繍した服を纏った弟も黙って軽やかに一礼する。


「どうもありがとうございます」


 この兄弟は恐らくは年子かせいぜい二つ違い、どちらも元の世界なら中学生くらいだろう。


 三妹こと私の従妹は大きな目でじっと同年輩の二人の姿を見詰めている。


「せっかくのお姐さんのお祝いなのにお前の踊り、まるでなってないじゃないか」


 黒地に朱雀の中華服を着た弟の方が小柄なかぼそい体に桜色の旗袍を纏った私の従妹に告げる。


 良く似た兄弟だがこちらは切れ長い目のやや吊り上がった、キッとした勝ち気そうな面差しだ。


 ああ、この顔には見覚えがある。この世界に来て初めて対面した相手だが、奇妙な既視感があった。


 多分、櫻子ちゃんがバレエを習っていた頃、山形のおうちで見せてくれた写真の中で一緒に写っていたお教室の友達の一人だ。


 そもそも男の子は少ない上にこの子はどの写真でもどこか取り澄ました、しかし、我の強そうな表情で映っていたので覚えている。


「だから不束と言ったでしょ」


 従妹は大きな瞳を微かに潤ませると蚊の鳴くような声で答えた。


 元の世界でも櫻子ちゃんは人見知りするので同い年の子たちの中に入ると酷く大人しくなるのだが、それはこちらの世界でも変わらないようだ。


「足を動かす時も手をなおざりにしちゃダメだし、手を動かす時も足をお留守にしちゃみっともない」


 話しながら手本を見せるように自ら長い手足を繰って踊り始める。


 これは見事だ。


 ダンスなど体育の授業でしかやったことのない私の目にもこの黒服の少年の動きが一般には決して下手ではない従妹と比べても段違いに洗練されていると良く分かる。


「あれは春の訪れを喜ぶ曲なんだから表情も晴れやかに」


 ふっと周囲の花霞を見上げて微笑むと、まだ十三、四歳の男の子なのにその表情には色香すら感じられた。


「お祝いの席の踊りなんだ。品評するもんじゃない」


 藍色の地に鶴を刺繍した衣装の兄が変声期特有の割れた声で言い放つ。


 弟より目付きの柔和なその顔にもやはり見覚えがある。


 ――弟の子の方が上手くて発表会でもプリンシパルになるけど、お兄ちゃんの方が優しいから。


 バレエ教室の発表会で撮った集合写真の中央で勝ち気そうに微笑むプリンシパルの弟に対して、端の方で小さな櫻子ちゃんを守るように隣に写っていた「お兄ちゃん」だ。


 ふと従妹を振り返って桜色の旗袍に対して靴は藍色の絹地に鶴の飛び交う模様であったことに改めて気付く。


 ああ、そうか。


 元の世界でも何となくそう感じたが、この世界でも従妹はこの知り合いの兄弟の兄が好きで、それで彼と同じ色柄の服飾を着けているのだ。


 服だと露骨過ぎるから裾に隠れがちな靴に自分の想いを現したのだろう。


「俺はそういう誤魔化しは嫌いだ」


 踊りの手足を止めた黒服の弟はキッと兄と櫻霞の二人を振り向くと睨み付けるようにして言い切った。


 踊っている時は不思議な神がかったような雰囲気だったのに、素に戻ると、年相応に幼いばかりか、何だかきつい感じの子だ。


 ずっと踊っていればいいのにと他人事ながら思う。


「私は自分が下手だって知ってますから」


 櫻霞は黒服の弟に対しては目を伏せてしか話さないようだ。


シャン、君の踊りは確かに素晴らしいけど」


 私の隣で暫く黙していた永南が穏やかに笑って窘める。


「それは他人にも同じように求めることではないんだよ」


「そうですか」


 勝ち気な調子を崩さずに答えた黒服の少年は、しかし、どこか寂しく俯いた。


 白や桃色の花弁が音もなく私たちの間に入り込むように舞い落ちていく。


「それでは、貴方も他所よそでの振る舞いにはくれぐれも気を付けて下さいますよう」


 私たちの沈黙を突き刺すようにすぐ近くから中高年の男性の声が響いてきた。


 目を向けると、五十絡みのどこかスーツじみたグレーの長袍の男性に四十前後のシックな珈琲コーヒー色の旗袍姿の女性、そして先ほど梅香姐様に言い寄っていた黄金色の中華服のおじさんが紅梅の木の下に立っていた。


 夫婦らしい前二人はどこか醒めた厳しい顔つきで後の一人、ジェンの呼ぶ所のファンの旦那様を眺めている。


「恐れ入ります」


 黄氏は打って変わって恐縮した面持ちで中年肥りした体を折り曲げるようにして夫婦に一礼すると、顔の汗を拭いながらそそくさとその場を離れていく。


 脂ぎった彼の顔を流れるのが肥満による暑さの汗なのか、叱責による冷や汗なのかは部外者の私には図りかねた。


 と、紅梅の下に残った夫婦の妻側がこちらを向く。


「こんにちは」


 艶やかな黒髪をかっつりと纏め、小さな口には鮮やかな紅を差した夫人は切れ長い瞳の端正な面差しからしてこの航・翔兄弟の母親だろう。


 すらりとした体つきの、一般には非常な美人に属す容姿だが、品良く微笑んでいるにも関わらず、小さな白い顔のやや尖った顎の辺りにどこか冷たい気位の高さが感じられた。


 これはちょっときつい相手だ。直感で察する。


イエンのおば様、お久し振りです」


 隣で如才なく告げる永南に倣うようにして私も頭を下げる。


 そうすると、お団子に結った髪の分け目にピッと吊られるような痛みがまた思い出したように走った。


 早くほどきたいが、この世界で髪の毛を降ろすことが出来るのは夜寝る時だけだ。


 そう思うと、春の麗らかな陽射しが緩慢な地獄に思えた。


「ご快気とお誕生日おめでとう」


 厳のおば様(と許婚が呼んだのだから私がそう呼んでも良いはずだ)は紅を差した唇を品良く微笑ませると澄んだ声で告げた。


 珈琲色の旗袍の肩越しに紅梅の花びらがどこかきつい芳香を漂わせながらちらちらと舞い落ちていくのが認められた。


 この人も下の息子と同じように踊りを良くしていたのだろうか。


 単純に細いというより引き締まった肩や腕の辺りからそんな感じがする。


「ありがとうございます」


 このやり取りは今日で何度目だろうとおもいつつ、お団子頭を下げる。


 そもそも私は本当に良くなったのだろうか。リー家の二女の桃花タオホアではなく二十一世紀の横浜に住む日本人女子高生の山下桃花やましたももかだとしか思えないのに。


「雛祭りに生まれたからこんな可愛らしいお嬢さんなのね」


 これは元の世界でも繰り返し言われたことだ。


「お陰で皆さんに誕生日を覚えていただけます」


 三月三日生まれで「桃花」と来れば名前自体が誕生日を示す記号のようなものだ。


「女の子の多いお宅は華やかで羨ましいわ」


 普通にしているとまだそこまででもないが、笑うと目尻に深く刻まれる皺でもう若くはない人だと分かる。


 四十五歳になる私のお母さんよりは多少若いから、四十前後だろうか。


 珈琲旗袍のマダムは尖った顎を微かに押し出す風にして付け加える。


「うちは息子しかいないから」


 こんな風に卑下するのは、実際のところ、この世界でも男の子の方が女の子より格段に「家を継ぐ者」「社会的な実務を担う人間」として尊重されているからだ。


 というより、こちらの世界では上の学校に進めるのも地位の高い職に就くのも男性だけだ。


 私の絵も、梅香姐様の琴も、櫻霞の踊りも、飽くまで「良家の娘の嗜み」であって、全うな芸術としての評価の対象にはもちろん、生計を立てる術にもならない。


「この子なんて学問より踊りに夢中だし」


 少し離れた場所に立っていた黒服の次男坊は母親の言葉にキッと振り返った。


「私は坊ちゃまの踊りは素晴らしいと思いますけど」


 率直に褒めてみる。


 しかし、黒服の少年は何故か反抗する力すら殺がれた風に目を落とした。


 珈琲旗袍の母親も「貴女みたいな子供には分からないわ」という風に肩を竦めると首を横に振って苦く呟いた。


「女の子みたいに踊りなんて」


 この世界では女の子というか女性がすることは男性がすることより総じて低級という扱いなのだ。


 そうした男尊女卑を害悪として是正する動きも少なくとも私の目に入る範囲では起きていない。


「どこを見ている、この粗忽者そこつものが!」


 後ろから響いてきた怒号に私たちは思わず振り返る。


「申し訳ございません」


 先ほど梅香姐様の琴を運んでいた若い下男が肥った黄金中華服の中年男の前に跪いて頭を下げていた。


「お召し物を汚してしまいまして」


 年の頃は二十はたちくらいで梅香姐様と同じくらいと思われる下男が震える声で布巾を取り出すと、黄の旦那様は引ったくるように受け取って濡れた袖口を忙しく拭き出した。


「まともに酒も注げんのか、お前は」


 フーッと嘆息する気配がして振り向くと、珈琲旗袍のマダムとその夫は呆れた風な冷たい眼差しを黄の旦那様と若い下男に注いでいた。


 私に寄り添う永南はどこか痛ましげに、そしていつの間にか少し離れた早咲きの桜の下に移動していた櫻霞と航・翔兄弟の三人は固まった面持ちで傲岸な中年の客人と年若い使用人を見詰めている。


 ふと斜め上からの視線を感じて見上げると、二階の窓から梅香姐様が凍った眼差しでこちらを見下ろしていた。


「お前みたいなグズ、うちならとっくにクビだぞ」


 黄金中華服の客人が言い放ったところで、窓の向こうの姿が消える。


 どうやら大姐様はこちらに降りて来るようだ。


「黄の旦那様、ご迷惑をおかけしました」


 恭しいが温かな声が届いた。


 長身のジェンは灰色の小さな頭で一礼すると、客人に似ていてもっと品の良い黄金色の服を差し出す。


「こちらでよろしければ、お召し物をお取り替え下さい」


 黄金中華服の男は実際には僅かにしか濡れていない袖口を拭く手を止めると、肥って弛んだ頬をニヤリと綻ばせた。


「それは助かった」


 中年男は拭いたばかりの布巾を地面に落ちた酒器と杯を拾い集めている若い下男の横っ面に叩き付けるようにして放り投げる。


 その煽りでふわりと酒の匂いがこちらにまで漂ってきた。


「酒臭い濡れ鼠では敵わんからな」


 何だかこのおじさん、見せしめにこの若い下男を屈辱的に扱っているみたい。


 周囲の強張る空気を背中に感じながら、さすがに私もそう思わざるを得ない。


 ジェンは恭しい面持ちのまま、薄茶色の瞳だけはどこか寂しく俯いた若い下男を見守っている。


 この若い男の人の方は客たちはもちろん執事のジェンと比べても質素な身形だから、恐らくは使用人の中でも序列は低いのだろう。


 象牙色の肌をした中高な横顔は、しかし、下っ端の召し使いにしては上品な、労働そのものに慣れていない雰囲気があった。


「お召し替えの部屋にご案内致します」


 いつの間にか近くに来ていた年配の女中がもの柔らかな声で告げると、ジェンから替えの着物を受け取った。


 この人は確かウーさんだった。胸の内で復唱する。


 私のお母さんとさして年の変わらぬ女中は、品の良い笑顔だが、しかし、どこか冷たく虚ろな眼差しをけばけばしい黄金色の服を纏った客に向けている。


「じゃ、頼むよ、おばちゃん」


 黄の旦那様は二重にした顎を振るわせて笑うと、先ほど梅香姐様に対して語り掛けたよりはずっとぞんざいだが、似たような纏い付く声を掛けた。


 自分だってみっともなく肥ったオジサンのくせによく呉さんを「おばちゃん」呼ばわり出来る。


 元いた世界でもこんな勘違い男はちょくちょく見掛けたが、この世界だと身分の高い男性は「お前だってオッサンだろ」と正面から指摘される機会も少ないのだろう。


「こちらでございます」


 私の思いをよそに替えの着物を手にした呉さんはごく平静に屋敷に向かって歩き出す。


「あんたもこの屋敷、長いよなあ」


 連れ立って歩きながら、中年男は呉さんの服の尻にさりげなく手を伸ばして触る。


 ……え?


“セクハラ”


“痴漢”


“性犯罪”


 目の前で起きている行為に該当する元の世界の言葉が次々頭の中に出てきてグルグル回る。


 花霞の庭には沢山の人がいて、正に衆人環視の下に行われているのに、触られている呉さんはもちろん、本来は止められる立場にいるはずの客たちですら、何となく嫌な感じで眺めているだけで止めようともしない。


 多分、この世界では「旦那様」と呼ばれる階層の男性が使用人階級の女性の体に触るのは「品のない振る舞い」ではあっても全力で止めるべき犯罪ではないのだ。


 目の前の桃源郷じみた満開の花の光景も、漂う梅や草木や客人たちのお香や酒の匂いも、何一つ変わらないのに、お仕着せの旗袍の背中はゾワゾワする。


「後は私が片付けるから、台所の手伝いへ」


 密やかに語る声に振り向くと、ジェンが屈んで若い下男の指に小さな布を巻いて結んでやる所だった。


 どうやら破片を拾い集める内に後者が指先を切ったらしい。


 ジェンの年老いてはいるがケアの行き届いた手と比べても、若い下男のそれは遠目にも荒れてがさついている。


 この人、梅香姐様が用向きを言い付けるのを何回か目にしただけで名前もまだ覚えていない(というか知らない)けれど、いつからうちで働いているんだろう?


 年は姐様と同じくらいだが、子供の頃からこうして働いているならもっと労働慣れしていても良さそうだし、かといって何年働いても駄目なほどの障害を持っているようにも見えないし……。


「分かりました」


 私の思いをよそに若い下男はアジア系としては中高な、しかし、白人の血の入ったジェンと向かい合うといかにも扁平に見える横顔を頷かせて立ち上がった。


 ふとこちらの眼差しに気付いた風に若い下男が目を向ける。


 私もそうだが、隣の永南からも微かに固まる気配がした。


「見苦しいところをお見せして申し訳ありません」


 元いた世界なら大学生くらいの下男は、自分より少し年下の私たちに深々と黒髪の頭を下げる。


 やめて。私はそんな偉い人間じゃない。


 豪華な桃色の絹を纏った胸の奥が締め付けられる。


 自分がこの人にとってはあの黄の旦那様と同じ、理不尽に頭を下げさせる側の人間なのだということが苦しくなる。


「失礼致します」


 視線を避けるようにして下男は屋敷に戻っていく。


 一応は私も頭を下げられる側の人間ならば、「お嬢様」ならば、この人や呉さんを守ることも出来たのではないか。


 いや、守ろうと動くべきだったのではないか。


 ジェンだって若い部下に自分の出来る形で助け舟を出していたのだから。


「李家の二のお嬢様」としてどう振る舞うのがこの世界では正解なのかは分からないが、少なくともただ傍観しているだけの自分が不甲斐ないことだけは良く分かる。


貴生グイション


 中庭に続く入り口からすらりとした紅色の旗袍姿が現れた。


 どうやらあの下男の彼は“グイション”という名らしい。


 ようやく把握すると同時に、梅香姐様の何かを諦めたような眼差しと声に息詰まる感じを覚える。


「台所の手伝いに行きます」


 下男は精一杯何でもない風に笑って告げると、入り口の向こうに消える。


玲玉リンユイ


 橘の香りと共に肩に手を置かれるのを感じた。


「向こうで話そう」


 振り向くと、許婚の肩越しに、壊れた器の欠片を回収して戻っていくジェンの優しく微笑む顔が見えた。

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