第五章:塀の向こうには

「あちらの池の所で話そう」


 水色のパジ・チョゴリの背中が告げる。


「ええ」


 相槌を打ってはいるものの、わたしは池の場所どころかこの花霞の庭の全容を把握していない。


 この世界に目覚めてから三日。


 今まで二階の部屋から眺めた限りでは花霞の向こうに城壁じみた我が家の塀が巡らされていて、その向こうに京都の五重塔じみた、しかし、屋根には海色の瓦を敷き詰めた藍灯ランディン塔(とお母さんが教えてくれた)が遠く聳え立っていた。


 しかし、いざ庭を歩き始めると、この桃色の花霞が一体どこまで続いているのかすら見当が付かないのだ。


「あっ」


 思い切り転ぶ寸前で橘の香りに包まれる。


「ごめんなさい」


 桃色の旗袍の腕を掴んで支えてくれた水色の韓服の腕に呟く。


「私、この靴での歩き方すら覚えてないの」


 本当は端から知らない、まだ慣れていないのだ。


 この世界の上流女性に与えられた、絹地に刺繍を施した、きつくて底の幾分高い靴。


「女の人は大変だからな」


 パジ・チョゴリに平たい革靴を着けた彼は、絹地に華麗な刺繍を施した、靴というより小さな宝石箱じみた容れ物に嵌め込まれた私の両足を見下ろして優しく微笑む。


「ゆっくり歩いていこう」


 私の手を引いてくれる許婚は、しかし、決して「そんな窮屈な履き物、脱いでいいよ」とは言ってくれない。


 この世界では、女性の体を持って生まれた人間は髪を伸ばし、きつくて踵の高い靴を履かなければ、人前に出られないのだ。


 それは心優しい永南の中でも疑問や反発の生じる余地のない領域にまで刷り込まれた「常識」なのだろう。


 元の世界でもあった「ビジネスの改まった場ではスーツで」とか「この学校の生徒ならこの制服で」とかわざわざ不便で着心地も良くない衣装を皆で我慢して身に付けるような暗黙の了解だ。


 生まれた時からリアルタイムでずっと常識になっていると、なかなか変革しようという発想にもならない。


「あすこの池のすももが七分咲きになってるね」


 元の世界では日本人の私たち一家が中華服、在日韓国人の彼やベトナム人のグエン君がそれぞれの民族衣装を着ているのも、それがこの世界での儀礼であり、常識だからだろう。


「この前、来た時はまだ固い蕾だったのに」


 横顔は張本君そっくりだが、永南の語る声は幾分老けて響く。


 貴方もその服、本当に好きで着てるの?


 嫌なら脱いでもいいんだよ、とは私も言えない。


 *****


「君は、本当に何も覚えてないんだね」


 梅や桃や桜に似て、しかしどこか異なる若緑の葉に白い花の咲く木々に囲まれた池の畔で、韓服の御曹司は寂しく微笑んで尋ねる。


 先ほど自分を覚えているかと問い掛けた時と同じ、否定的な答えを予期した人の面持ちだ。


「ええ」


 この人の目にも私は本来の許婚の令嬢らしくは見えていないだろうと思いつつ、極力礼儀正しい受け答えに努める。


 しかし、これ自体が相手には違和感のある挙動でしかないだろうという気もした。


「頭が変になったように見えるでしょうけど」


 白いすももの花弁が漂う水面の下ではあかや白や黒やぶちの鯉たちが緩やかに泳いでいる。


「ここは私の居るべき世界だと思えないんです」


 山下桃花は分譲マンション住まいで、共用のフラワーガーデンにもこんな立派な鯉が何匹も泳ぐ池などなかった。


李桃花リー・タオホア玲玉リンユイも、自分でない誰か別な人の名前としか感じられません」


 張賢チャン・ヒョンあざな永南ヨンナムとされる少年は微笑んだ顔のまま、そこだけ虚ろになった瞳をこちらに向けている。


「あなたとも本当はもっと違う形の間柄あいだがらだったとしか」


 張本賢はりもとけん君がこんな目で私を見詰めたことはない。


「それじゃ、君は」


 重々しい声と共に水色のパジ・チョゴリに着けた飾り玉が微かに揺れる。


「僕の家が大韓族だいかんぞくで、君の家とは異なる生まれだとも知らないのかい」


 李の花弁がはらりと一枚、私たちの間を舞い落ちて、永南の韓服の帯の結び玉が微かに揺れるのが認められる。


「着ている服が多少違うとは分かりますけど」


 元いた世界では、張本君が姓名からして在日コリアンだと何となく皆も察していて(在日コリアンの人たちが元の姓が『金』なら『金田』『金山』『金本』、『張』なら『張本』等の通名をしばしば使うことを中学時代の私たちも既にメディアや大人たちの噂で知っていた)、敢えて口にしない空気だった。


 張本君の方でも自分のルーツを語ることはなかった。


 張本君本人はむしろ裕福な育ちで粗暴な所などない、バスケが好きで成績も運動も中の上程度の男の子であっても、在日韓国人・朝鮮人といえば、二十一世紀の日本では敵意を向ける人が少なくないからだ。


「随分違うよ」


 相手は初めて目にするような乾いた笑いを浮かべた。


「口には出さなくても、皆、そう思ってる」


 水色のパジ・チョゴリの彼は浅黒い顔の切れ上がった目で向こうに聳え立つ藍色の瓦屋根の搭を見据えた。


「僕はこの租界そかいで生まれて育った」


 三月のどこか低い晴れ空の下、二階ほどの高さの塀の向こうに立つ搭は近いようで酷く遠くも見える。


「大韓には行ったこともないし、言葉も話せない」


 この人の言う「大韓」とは朝鮮半島の辺りなのだろうが、恐らくは元の世界の北朝鮮や韓国とは同一でない。


「それでも、この国では僕は大韓族、さっき会った阮龍グエン・ロン越南えつなん族として括られるんだよ、一生」


 伏せた彼の眼差しは、池を横切っていく白地に鮮やかな斑の入った鯉と影のように寄り添う黒の鯉に注がれていた。


 水色の韓服の肩に白い李の花びらが一枚、音もなく落ちて留まる。


「君の一族は立派な方ばかりだ。亡くなったお祖父様とお祖母様は大韓族や蒙古もうこ族、越南族、緬甸めんでん族とも進んで交流され、ジェンのような白人の血を引く者でも力量や人となりを見て重用した」


 執事のジェンはこの世界ではやはり蔑まれる出自なのだ。


 許婚の韓服の肩に貼り付いた、服の水色を半ば透かすほど薄く白いハートに似た形の花びらを眺めながら、改めて胸の奥を刺されたような痛みを覚える。


 七分咲きの李の木に囲まれた池の畔には私と永南しかおらず、あの灰色の髪と目をした長身の姿は視野に入らないのが不安でもあり、救いにも思えた。


 水面に目を落とせば、岸辺の私たち二人の立つ足元のちょうど真ん中辺りに、池底の色に紛れそうな黒灰色の、しかし、他の鯉たちより体の一回り大きな鯉が一匹いつの間にか泳ぎ着いて留まっていた。


 他の鯉たちが緩やかに泳ぎ回る群れから離れて、かといって餌を求める風でもなく、令嬢と御曹司の立つ岸辺に寄り添っている。


「君のお父様もロンとクワン家の美鈴メイリンが恋仲になった時に反対する親たちに説得を」


 グエン君夫婦はどうやら恋愛結婚らしい。


 ふと目を移した池の一角では真っ白な鯉と白地にあかまだらの入った鯉が寄り添って緩やかに泳いでいるところだった。


「今は生まれや民族に囚われる時代ではない、と」


 敢えてそう宣言しなければならないほど、ここは生まれや民族がものを言う社会なのだ。


「僕らが婚約したのも君のご両親が開明的な方々だからだ」


 あなたはそれでいいの?


 答えの代わりに彼の肩からハートに似た花びらが音もなく舞い落ちる。


「君のお父様は」


 池を取り巻く木々の中からまた一枚、雑じり気なく真っ白な花びらが遠くに見える藍灯塔を背に落ちていく。


 どの木から離れた一枚だろう。ふとそんな疑問が頭を掠めるが、一様に七分咲きに花開いている木々の様子からは分からない。


「ドレイに落とされた楊貴生ヤン・グイションが坑夫として満洲マンジョウ行きの船に乗せられる前に買い取られた」


 ドレイ?


 一瞬間を置いて「奴隷」に変換される。


 この世界での許婚がゆっくり振り返った。


 逆光になっていたが、目には微かに潤んだ光が宿っている。


「彼は元は君の大姐様の許婚だったんだよ。それが家が取り潰しになって奴隷の身分に落とされた」


 パサパサッ。


 微かな羽音を響かせて小さな鳥が一羽、永南の肩越しに聳え立つ藍灯搭に向かって飛んでいく。


 雀ほどの大きさだが、白い腹と黒く縁取られた羽、そして灰緑の頭で四十雀しじゅうからと知れた。


 今までたった一羽だけで鳴きもせずに花霞の枝の中に身を潜めていたらしい。


「彼は僕やロンの私塾の先輩だった。名家の跡取りらしい、いつも穏やかで優しい人となりで、どこにも嫌な所など無かった」


 白黒の際立つ小鳥の姿が藍色の瓦屋根の向こうに広がる水色の空に小さくなっていく。


「それが家の取り潰しで一夜にしてヌヒの身の上に落とされた」


 ヌヒとは元の世界にも古語として存在した「奴婢」のことだろう。


 橘の香りが思い出したように仄かに匂った。貴生グイションというあの若い下男もほんの少し前までは「ヤンの坊っちゃま」と呼ばれ、こんな風にお香を身に付けていたのだろうか。


「満洲に坑夫として送られたらもう三年と生きられないそうだからリー家で働いた方が良いのだとは判るけれど」


 永南はもはや碧空の黒い一点と化した四十雀に目を注いでいるようだった。


「僕は使用人の服を着た彼を目にする度にどう接したらいいのか分からない」


 飛び去る鳥の姿は薄い水色の空に飲み込まれるようにして見えなくなっていく。


ヤン兄様あにさまとはもう呼べない」


 兄様、という時のどこか幼い調子から、永南の中ではまだ相手が頼るべき大きな存在であることが感じられた。


「でも、貴生と呼び捨てることも出来ないんだ」


 一気に十歳は老けたような苦い声で続ける。


「辛いのは僕でなく彼の方なのに」


 覚えず許婚の韓服の肩に手を伸ばすと、触れる空気がひやりとしていて今更ながら旗袍の下の肌まで粟立った。


 不意に指先にさっと払いのけられるような、より一段階冷えた風が吹き抜けた。


 目の前の相手が体全体で振り返ったのだ。


「僕は、彼のようになるのが怖いんだ」


 振り向く前より半歩ほど遠退いた場所から、しかし、真正面からこちらを見据えた永南は小さいが重い声で言い切った。


 雪のように白い花びらがまた一枚、二人の間を横切って落ちていく。


「僕の家は大韓族としては裕福だし、教育にも恵まれている方だ。でも、いざ家が取り潰しに遭えば、そんなものは何の役にも立たない」


 私より頭半分以上も背の高い、肌の浅黒い、精悍な面差しの相手はきらびやかな韓服の肩を落とした。


「僕が奴隷に落とされたら、きっと、楊の兄様よりもっと買い叩かれ、無様なことになるんだろう」


 素のままだと鋭く切れ上がった両の瞳が私に向けられたまま虚ろになる。


「それは、私も同じです」


 名家の坊っちゃまがある日、突然坑夫や下男に落とされることが有り得る社会だとすれば、お嬢様が一夜にして娼婦や下女といった境遇に転落する例も少なくないはずだ。


 今、こんなお姫様みたいなピンクの絹の旗袍を着せられて刺繍の入った靴を穿いていたって……。


「君は」


 言い掛けたまま、相手は両の拳を握り締める。


父様とうさま、見て、燈籠とうろうが飛んでる」


 池の向こうで東南アジア風の緑ワンピースを着た小さな女の子が傍らの父親に指し示す。


 その先では、真っ赤な燈籠が一つ、藍灯塔の前をすり抜けて飛んで行く所だった。


「本当だ」


 やはり東南アジア風の、しかし、グエン君の着ていたアオザイとも異なる衣装を纏った父親は幼い娘を抱き上げる。


「まだ夜じゃないけど間違えて一つだけ飛ばしちゃったのかな」


「間違いなの」


「燈籠をいっぱい飛ばすのは夜になってからだからね」


 水色の空を迷子のように飛んで小さくなっていく赤い燈籠を見詰める父娘は元の世界では会った覚えがないが、さっき永南のした話に出てきた緬甸めんでん族の人たちだろうか。


 この庭に集まっている客のそんな素性すら私には把握できていない。


「私ときたら、屏風絵の描き方どころか、この靴を履いてまともに歩くことすら覚束ないんですから」


 もし、今、この瞬間、李家が取り潰しになってこの塀の外に出されたら、元の令嬢の桃花タオホアがそうなった場合よりももっと悲惨な末路窮途に陥るだろう。


 黙した許婚の韓服の肩越し赤い燈籠が水色の空を漂いながら遠ざかっていくのが見える。


 たった一つだけでどこに飛んでいくのか。


 あれも鮮やかな色を纏ってはいるけれど、程なくしてどこかに墜ちて潰えてしまうのだろう。


 パシャン、とすぐ足元の池で鯉が身を翻す音がした。


 同時に、午後の陽が陰って前に立つ許婚も塀もその向こうにある塔も影絵になる。


「お嬢様」


「ジェン」


 呼び掛けてから呼び捨てにしてしまったことに気付いたが、この世界ではこれが正しいのだ。


チャンの坊っちゃまも」


 灰茶色の瞳をした老執事は飽くまで穏やかな笑顔を崩さない。


「そろそろお祝いの会もお開きになりますが、旦那様が中でお二人とお話されたいそうです」


 旦那様とはうちのお父さんのことだが、この人は多分お父さんより年上だ。


「じゃ、行きましょう」


 どこか戸惑う面持ちの許婚に告げて私は歩き出す。


 相変わらずきつくて踵の高い、歩きづらい靴だ。


 でも、履いているのは私の足だから、何とか踏み締めて進もう。


 タンタタ、タンタタタンタン……。


 藍灯塔の立つ方角から三味線しゃみせんに似た絃楽器の音色で「雛祭り」の歌が流れてきた。


 塀の向こうに広がる街で誰が弾いているのだろうと頭の片隅で思いつつ、花霞の庭から屋敷の中に向かう。

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