第三章:花霞の中から

 庭に出ると、白とピンクの花霞と色とりどりの中華服(だけではないかもしれないが)に目がチラチラする。


 木に咲いた花は桃が主だが、白梅や紅梅、そして河津桜と思われるピンクの濃い桜も見える。


 恐らくはこの時期に花霞を楽しめるような配置に植えたのだろう。


 この世界は気候や自然としては元の世界と大きくは変わらないようだ。


 ただ、元の世界と違ってコロナウィルスはここでは猛威を奮ってはいないようで(私が意識不明だった病気も他の人に伝染する性質のものではなかったようだし)、一見して富裕層と分かる招待客たちも晴れやかに笑って酒を酌み交わしている。


ヒョン!」


 人の群れの中から若い男の声がした。


 周囲の人とは明らかに異質な小麦色の肌をした、服装も中華服とは似ていて少し異なる真っ白なアオザイを纏った声の主が片手を挙げながら笑顔でこちらに近付いてくる。


 あれは……。


ロン!」


 隣の許婚も笑顔で手を挙げ返した。


 どうやらグエン・ロン君はこちらの世界でも同じ名のようだ。


 中学時代は隣のクラスだった、ベトナム人の同級生。


 張本君とは確か同じバスケ部で仲良く一緒に帰る姿を見掛けた記憶がある。


「お誕生日おめでとう」


 アオザイの彼はどこか遠慮がちにこちらに微笑みかけた。


「ありがとうございます」


 元の世界でも私とグエン君は「中学の同級生で顔と名前は知っているが、クラスも部活も違うので良く話したことはない」という間柄だった。


 こちらでも「友達の許婚」「許婚の友達」というワンクッション置いた関係性のようだ。


「奥さんはどうしたの?」


 パジ・チョゴリの許婚は玉飾りを微かに揺らしながらさりげなく問い掛ける。


「あいつは悪阻つわりが酷いから今日は家にいるよ」


 グエン君、もう奥さんがいて父親になるの?


 同い年の私と永南が婚約しているのだから不思議はないが、それでも目の前のまだ高校生にしか見えない彼の姿とどうにも折り合わない。


「メイリンも貴女あなたによろしくと」


 白アオザイのグエン君は笑顔で私に告げる。この「メイリン」というのが奥さんの名前だろうか。


 元の世界では同じ中学の一級下で私とは英語教室で一緒だった美鈴みすずちゃんがグエン君を好きらしく良く彼の話をして確か高校も同じ所に進んだ気がするが、彼女がこの世界の「メイリン」かどうかは現時点では確かめようがない。


「どうもありがとうございます」


 取り敢えずこう返しておくより他はなかった。


「こちらも奥様の安産をお祈りしております」


 どのような女性か知らないがとにかく妊婦らしいので無事に産まれて欲しい。


「ありがとうございます」


 白アオザイの相手は一礼してその場を後にする。


「じゃ」


 私の隣にいる許婚は橘の香りと共に袖を振った。


 取り敢えず、グエン・ロン氏とのやり取りはこれで済んだようだ。


 ほっとすると同時に疲れが襲う。


 しかし、庭にはまだ初めて目にする客が山ほど残っているのだ。


キム伯母おば様、こんにちは」


 二、三歩進んだ所で隣の永南が呼び掛けた。


 桃の花の下に立っていた真っ白な束髪に同じく真っ白なチョゴリ、黒地のチマを着けたお婆さんが振り向いた。


「あら、ヒョンちゃん」


 お婆さんは皺多い顔の皺をいっそう深くして温かな声で応じる。


 永南の「伯母様」というより「お祖母ばあ様」や「大伯母おおおば様」にこそふさわしい年配に思えるが、正確な続柄は分からない。


 白と黒の質素な身形だが、却って周囲の豪奢な中華服姿より品良く見える老婦人の笑顔がこちらに向けられる。


リーのお嬢さんのご病気が良くなって良かったわ」


 そうだ、この世界の私の姓は「李」だった。まだ自分ではない別の誰かの名に思える。


「ソンフイそっくりね」


 チマ・チョゴリの老婦人はお団子頭に旗袍を纏った私に向かって微笑んだまま細めた目の奥を微かに潤ませる。


「孫のお嬢さんたちの中でも貴女あなたが一番似ている」


「そうですか」


 元の世界では父方のお祖母ちゃんは「松恵まつえ」といい、祖母を知る人からは三人の孫娘の中でも私が一番似ていると良く言われた。


 ――中学生の頃、同じ組に金田かねださんて在日朝鮮人の女の子がいて仲が良かったんだけど、途中で向こうが転校しちゃって、今はどうしてるのか分からない。


 いつか寂しく笑って語っていたお祖母ちゃんの顔が目の前にいる韓服の老婦人と重なって蘇る。


 音もない風が吹いてきて、梅のふんわりした芳香に湿った土の匂いが入り交じって通り過ぎた。


「きっと、貴女のお祖母さんも『まだ来ちゃいけない』って冥府から帰してくれたのよ」


 元の世界で山形の櫻子ちゃん一家と同居していたお祖母ちゃんは去年の暮れに亡くなったが、こちらの世界でももう故人なのだ。


「そうですね」


 なぜ、なぜそんな所だけは一緒なんだ。


 ザワザワと風が音を立てて、目の前に広がる花霞が熱く滲む。


「ごめんなさいね」


 皺だらけの温かな手が私の旗袍の肩を撫でる。


「病み上がりの人に辛いことを思い出させちゃって」


 この金の伯母様は顔こそ似ていないけれど、真っ白なチョゴリの袖からは桜餅じみた、元の世界のお祖母ちゃんに似た匂いがする。


「玲玉はまだ病気から意識を取り戻したばかりで記憶も不確かなんです」


 隣の永南が静かに言い添えた。


 私が日本人の山下桃花でコロナウィルスの流行る世界で交通事故に遭ったという記憶は本当に確かなのだろうか。


 少なくともこの世界でそれを口にしても病気による錯乱としか扱われない。


「それでは、お大事にね」


 老婦人は飽くまで穏やかに告げると元の広間の方に戻っていく。


 後ろ姿になると真っ白なチョゴリの背中から痩せて骨ばった体つきが目立った。


 あの人も長くはないかもしれない。そんな思いが一瞬過る。

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