第二章:宴席の面々

「それでは、二のお嬢様のご快気とお誕生日、そして桃花とうか節句せっくを祝して、乾杯!」


「乾杯!」


 中華料理屋じみた提灯灯りを天井から幾つも吊るし、桃の花咲く枝を活けた壺を各所に配した、だだっ広い客間。


 昔風の中華服を着た大勢の人たちの前で音頭を取るジェンの隣で、私はせいぜい引きつった笑いを顔に張り付けて杯を皆のワンテンポ遅れで持ち上げるしかない。


 口元に運んだ杯の中身がほんのりした匂いからして甘酒らしいことに幾何いくばくか安堵する。


 一口の半分ほど含むとやはり甘酒だった。どうやら出す前に温めたらしく人肌ほどのぬくみが口の中を通り過ぎる。


「アーメイ」


 振り向くと、梅香――この世界では同じ字面で“メイシャン”と呼ばれる従姉が立っていた。


 この世界ではいとこも兄弟姉妹と同じ扱いであり、“アーメイ”とは文字にして「二妹」、「二番目の妹」という意味なのだ。


「無理して全部飲まなくていいから」


 三歳上の相手は姉というよりむしろ若い母親にこそ相応しいような語調だ。


「分かりました、大姐様おおねえさま


 元の世界にいた梅香うめかちゃんとは同じ顔をした別人なのだと思おう。


玲玉リンユイ


 これも確か私の名前の一つだったと思いつつ、声のした方を振り向いて思わず杯を落としそうになる。


「あ……」


 言い掛けたまま、私は言葉の接ぎ穂を失って固まる。


 長袍とも着物とも似ていてやや異なる水色のサテン地のパジ・チョゴリを纏った相手は、大柄でややいかつい体つきといい、目尻の切れ上がった浅黒い顔といい、中学で同じクラスだった張本はりもとくんそのものだった。


「病気が治って本当に良かった」


 手にした杯をグイと勢い良く飲み干すと、半ば透き通った白玉を通した帯の結び玉がゆらゆらと揺れた。


「倒れたその日からうちでも君の回復祈願していたんだよ」


 話ながら手を動かすと袖の辺りからたちばなじみた香りもほのかに匂って来る。


 これがこの世界でも高級な身なりらしいのは私にも何となく分かる。


 元の世界の張本くんも確か家はお金持ちらしいと聞いたことがあった。


「らしい」と曖昧な伝聞形でしか思い出せないのは、特に好きでも嫌いでもない、関心を持たない相手だったからだ。


 それは恐らく張本くんにとっての私も同様だろう。


「それは、ありがとうございます」


 さりげなく言ったつもりがいかにもよそよそしい響きになる。


「玲玉?」


 張本くんの顔をした韓服の御曹司が怪訝な表情を浮かべた。


チャンの坊ちゃま、ちょっとこちらへ」


 ジェンがいつもの穏やかな笑顔で声を掛ける。


「ああ」


 パジ・チョゴリの坊ちゃま(というにはもう大きい気がするけれど)は戸惑った顔つきのまま頷くと、我が家の執事と連れ立って客間の外に出ていく。


 並んだ後ろ姿でジェンの灰色の頭の方が“張の坊ちゃま”の針金じみた硬い黒髪の頭よりもう少し高い位置にあると知れた。


 張本くんは中三の時点で身長一八〇センチ近くあったから、ジェンはそれよりなお長身ということになる。


「桃花」


 いつの間にかすぐ後ろに来ていたお母さんが右肩上がりの筆跡のメモを見せる。


“張賢 字 永南 許婚”


 元の世界では「張本賢はりもとけん」だったから、この世界での名前も字面はやはり「賢」で「永南」というもう一つの名もあって……。


許婚きょこん?」


 それが婚約者という意味なのは私にも分かる。


「えーっ」


 思わず落とした杯が足元でガシャンと割れる音がして飲み掛けのまだ生暖かい甘酒の匂いが一歩遅れて立ち上ってくる。


「ヨンナム様は二の姐様が意識不明の時もお見舞いに来て下さったんですよ」


 お団子頭に桜色のリボンを結んだ櫻子ちゃん――この世界では“櫻霞インシャ”、私にとっては“三妹サンメイ”と呼ぶべき従妹は大きな目に涙を湛えて言い添えた。


 どうやら“賢”という本名ではなく“永南ヨンナム”と字で呼ぶべき間柄のようだ。


 そういえばあの人も“玲玉リンユイ”と字の方で呼んできたし。


 頭のどこか冷静な部分で分析しつつ震えが止まらない。


 あの彼が私の婚約者?


 そうこうする内にまた桃の花を飾った客間にジェンと“張の坊ちゃま”が戻ってくる。


「玲玉」


 先ほどと同じ名前で呼び掛けてくるが、浅黒い顔には小さな妹にでも対するような痛ましげな笑いが浮かんでいる。


「僕が分かるかい?」


 切れ上がった瞳には否定的な答えを半ば予期した人に特有の諦めが漂っていた。


「お顔には確かに見覚えがあります」


 昔風の装いをした中学時のクラスメイトにしか見えないけど。


「そうか」


 相手の瞳に幾分安堵した色が宿った。


 水色のサテンのパジ・チョゴリの肩越しにジェンが広間の入り口に立って優しく微笑んだ姿が見える。


 本当の桃花タオホアの魂はどこに行ったのだろうか。


 もし、元の世界で交通事故に遭った私と入れ替わったのだとしたら、今頃は永南に会いたがっているだろうか。


 張本くんと私はもし互いが事故で重体で病院に担ぎ込まれたとか伝え聞いても、

「あの子が気の毒だな」

と多少胸を痛めはするだろうが直に駆け付けるような間柄ではない。


 許婚もいない、助け船を出してくれる執事もいない。


 そう考える間にも私が落として割った杯の欠片をまだ名前も覚えていない中年の女中が箒で掃き集め、溢した甘酒を雑巾で拭き取ると、黙礼して出ていく。


 異世界の令嬢はこんな風に他人にかしずかれて暮らしていた。


 元の世界の私の境遇の方が彼女にとってはより救いがないものかもしれないのだ。


 きっちりお団子に結った頭と、顎の下にまでぴったり貼り付くように仕立てられた旗袍と、豪華な刺繍を施した布靴をがっしり嵌められた両足に、微細にだが確実に体を絞め殺されていく感じを覚えながら、私は二人の男に微笑みかける。


「それでは、不束ふつつかではございますが、一曲舞わせていただきます」


 背後から響いてきた声に振り向くと、三妹こと櫻霞インシャが立って述べているところだった。


 その後ろでは大姐様こと梅香メイシャンが木造りの琴らしき楽器を前にして椅子に座している。


 二人の従姉妹の背後には古い日本画か中国絵画風の技法で描かれた満開の白梅、紅梅、桃、桜の木の屏風が立っていた。


 ジャーン……。


 日本の琴に似てもう少し派手やかな音色が桃の花を飾り提灯を吊るした広間に響き渡る。


 梅香姐様の紅色や私の桃色よりもう少し淡く可憐な桜色の旗袍を纏った「三妹」こと櫻霞が小柄な体に比して長い手足を翻して軽やかに舞い始める。


 これは恐らく中国舞踊だろう。バレエとはまた異なる方向にアクロバティックで、日本舞踊とも少し違う優婉さだ。


――私はきつい靴を履いて決められた振付を踊るより自由にボールを追い掛けてシュートを狙う方が好き。


 元の世界の櫻子ちゃんは中学に入ると親の言い付けで習っていたバレエを辞め、長かった髪も切ってバスケ部に入った。


――ピンクなんか嫌い。男に媚びるぶりっ子の色。


 それまでお母さんに買い与えられて素直に着ていた赤やピンクのブラウスやフリフリスカート、レース飾りの付いた靴下を打ち捨てるようにして青や水色、あるいは紺色のTシャツやジーンズばかり身に付けるようになった。


 まるで「女の子」の特徴を抹殺して「男の子」に見える記号で武装するかのように。


 桜色の服を着てお団子頭にリボン(正式名称は分からないが私にはそれしか当てはめるべき言葉が見つからない)を結んで踊る「三妹」はそういう自分に不満も違和感も抱いていないのだろうか。


 琴の音色に合わせてスッと伸ばした足に嵌められた布靴は深藍の地に飛び交う鶴の刺繍が施されていた。


 あれは本人の好みで作った色柄だろうか。どのみちこのタイプの靴で踊るのはトゥーシューズよりきついだろう。


 自分の足に締め付けられる感触が蘇るのを感じながら、飽くまで笑顔で踊る従妹の姿に胸が微かに痛むのを覚える。


 つと、隣から橘の香りが届いた。


「あの屏風の、桃の花の枝に四十雀しじゅうからの止まっている辺りが僕は特に好きだ」


 確かに中央の屏風には優しい桃色の花を付けた枝に白黒の模様も鮮やかな鳥が一羽横向きに止まっている様子が描かれている。


「確かに桃の花に白黒の鳥の姿が引き立って見えますね」


 琴を奏でる梅香姐様が語り合う私たちの姿を目にして安堵した風に微笑むのがこちらにも見て取れた。


「君が今まで描いた中でも一番良いくらいだ」


 張永南は切れ上がった目を細める。


「え?」


 大きくはない声なのに妙に飛び出て響いた。


うめももさくらの花咲くあの屏風を君は三ヶ月も掛けて描いたじゃないか」


 相手は一度細めた目をまた開いてこちらをまじまじと眺める。


「絵が好きで良く描いていた君なのに」


 絵は嫌いじゃないし、学校の美術の成績も悪くはないけれど、あんな古風な屏風の絵なんか描いたこともないし、描き方も知らない。


「そうですか」


 琴を奏でる大姐様と舞い踊る三妹のこちらに向ける眼差しが微かに固まるのが辛い。


「二のお嬢様」


 優しく温かな声が届いた。


 またジェンが来てくれたようだ。


 安堵と共に振り向く。


「まだお酒は刺激が強いようなので碧螺春へきらしゅんをお持ちしました」


 盆には湯気立つ二つの茶碗が仲良く並んでいる。


 龍井茶に似てもう少し穏やかな香りが私と永南の立つ辺りにも漂ってきた。


「張の坊っちゃまもよろしければ召し上がって下さい」


 灰色の髪をした執事は長身を折り曲げるようにして茶碗をテーブルに置く。


 着ているのがタキシードならさぞかし素敵な「ロマンスグレーの紳士」に見えるだろうに、纏っているのが白人的な長い頸にも広い肩にも窮屈そうな長袍であることがこの人を「異邦の高級奴隷」に見せている。


「ありがとう、ジェン」


 韓服の御曹司は鷹揚に告げると、私に先んじて茶碗に手を伸ばした。


「ありがとうございました」


 舞台の方からも従姉妹たち二人が揃って述べる声が響いてくる。


 振り向くと、若い下男(これも何度か見掛けたが私はまだ名前を覚えていない)が琴に絹の覆いを掛けて運び出そうとするのに梅香姐様が

「気を付けて」

と静かに声を掛けているところだった。


 元の世界の梅香うめかちゃんもピアノが趣味で良く弾いていたから、この世界ではそれが琴に置き換わったのだろうか。


「ほら、君も飲もうよ」


 ふわりと橘に青葉めいた甘い匂いの混ざった香りがして、振り返ると、永南がもう一つの茶碗をこちらに差し出していた。


 水色の韓服の肩越しにジェンが微笑みながら頷いて遠ざかっていくのが見える。


「ありがとう」


 私は執事と許婚の双方に向かって頷くと、仄かに湯気立つ茶碗を受け取った。


 ジェンが淹れてくれたお茶だからきっと大丈夫だ。


 陶器を包む両の掌には程好い温かさが伝わってくる。


「これからゆっくり思い出していけばいいんだよ」


 淡い湯気越しに見える浅黒い婚約者の面は穏やかに優しい。


 キュッと旗袍の詰襟に首を締め付けられるような感じが蘇った。


 パジ・チョゴリに玉飾りを着けたこの人にとっての私も恐らく自発的な恋愛から選んだ異性ではないはずだ。


 恐らくは親や家の事情で宛がわれた相手に過ぎないだろう。


 それでも、この人は「未来の妻」とされた相手には出来る限りの思いやりを示そうとするのだ。


 それだけの良心を備えた人なのだ。


 口に含んだお茶はふくよかな甘さの底に苦味を秘めている。


「いやあ、素晴らしい演奏でした」


 少し離れた場所から響いてきた声に私も許婚も思わず目を向ける。


 黄金色の中華服を着た男が大姐様の前に立っている。


 顔は分からないが、すらりと背の高い梅香姐様と向かい合うと、男にしてはやや小柄で中年太りした風な後ろ姿だ。


貴女あなたの琴をうちに帰ってもずっと聴いていたい」


 言葉の額面的な内容よりもまず纏いつくような声が耳に障る。


「どうもありがとうございます」


 大姐様は苦笑しながら豊かに黒い束髪の鬢を撫でた。


 これは梅香ちゃんが苦手だが丁寧に接しなければならない立場の相手と話している時の癖だ。


「ご両親が蝦夷地えぞちに行かれてもう二年ですね」


 黄金色の中華服の背中が今度は粘り気を残したままどこか憐れむ風な声を出す。


「お寂しいでしょう」


 元の世界では北海道住まいで医大二年生の梅香ちゃん、山形住まいで中学一年生の櫻子ちゃんは、こちらの世界ではそれぞれ両親と離れて私たち一家とこの屋敷で同居している。


 ちなみに北海道は「蝦夷地」、山形は「羽州うしゅう」とこの世界では呼ばれているらしいのはここ数日に耳にした家族の会話から私も何となく聞き知っていた。


「私は好きにしていますから、却って気が楽ですわ」


 二十歳の大姐様はどこか諦めたような、気怠さを含んだ声で答えた。


 これは元の世界では目標に向かって迷いなく進んでいく従姉からはまず聞いたことのない声だ。


 この世界でも医薬の本を読んで私が倒れている間にもあれこれと処置を施してくれた大姐様だが、この世界で女性は正式に大学で医学を学べる立場にいない。


「いつまでもそうなさる訳にもいかないでしょう」


 纏いつくような中年男の言葉に、二十歳の滑らかに白い面が微かに強張った。


ファンの旦那様」


 ビロードじみた声が響いた。


「庭の方でイエンの旦那様がお探しのようでしたよ」


 いつの間にか現れたジェンが微笑んでいた。手には布に包んだ荷物を持っている。


「ああ」


 黄金中華服の振り向いた顔は眉太く目の大きな、中年太りして脂じみてさえいなければそれなりに美男子だっただろうという面差しだ。


 しかし、元から地味で不細工なおじさんよりこういう人の方がたちが悪いかもしれないという気もどこかでした。


「じゃ、また」


 纏い付くような声で大姐様に告げると黄金色の中華服の男は肩を反らせて出ていく。


 薄荷ハッカじみた香りに汗じみた匂いが入り混じって私と許婚の下にまで届いた。


 恐らくあの肥えたおじさんも高いお香を着けているのだろう。


「一のお嬢様」


 執事は何事も無かったように梅香姐様に布に包んだ荷物を差し出した。


「お荷物が届いております」


「ありがとう」


 ほっとしたような、しかし、まだどこかに固い何かを残した面持ちで従姉は受け取る。


「僕らもちょっと庭に出ようか」


 飲みかけの茶碗をテーブルに置くと、永南は微笑んで告げた。まだ小さな妹にでも対するような、痛ましさを秘めた笑顔だ。


「そうしましょう」


 別に庭になど行きたくないが、何となくそうしなくてはいけない気がして、まだ殆ど飲んでいない茶碗を彼の茶碗から少し離れた場所に置いて部屋を出る。


「僕が一人一人の名前を極力呼ぶようにするから、君は聞いて思い出して」


 廊下を歩きながら永南が私に耳打ちする。


「分かりました」


 一足遅れて匂ってきた橘の香りの中で頭を頷かせると、きっちりお団子にして結った後頭部に思い出したように微かな引っ張られる痛みを覚えた。


 元の世界での私は不器用で上手く編めないせいもあるが、そもそも両サイドで髪を分けて三つ編みにすると引っ張られて痛いので基本は一つに束ねるのでなければ髪を下ろしている。


 この世界ではそんな髪型の自由すら無いのだ。


ウーさん、お疲れ様」


 私の思いをよそに許婚の彼は廊下をやってきた中年の女中に声を掛ける。


 先ほど私の落として割った杯の片付けをした人だ。


「ありがとうございます」


 相手は自分の子供でもおかしくない私たちに向かって恭しく微笑んで会釈しながら去っていく。


 あの人は“ウーさん”だ。今度は何かしてもらったらちゃんとお礼を言おう。


 この世界ではたまたま私がお嬢様であの人が使用人というだけで、同じ人間なのだから。


 もしかすると、元の世界ではあの人だってあるいはうちよりお金持ちの家の奥様やキャリア・ウーマンだったりするのかもしれないし。


 そんなことを思う内にも視野がパッと明るくなって、花の香りを交えつつまだ底に冷えたものを含んだ風が絹の旗袍を着た体に吹き付ける。

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