桃花節《ひなまつり》

吾妻栄子

第一章:一人だけ知らない

「お嬢様……」


 目覚めると、薬草じみた匂いが鼻につんと来ると同時に真っ先に視野に現れたのは端正な、彫り深い目鼻立ちと灰色の混ざった薄茶の瞳からして白人の血が明らかなお爺さんの顔だった。


のお嬢様が目を覚まされました!」


 豪奢な天蓋付きのベッドの傍でワッと沸き立つ声が上がる。


「タオホア!」


 顔も声も私のお母さんには違いないが、昔風の束髪にして小豆色の綸子の旗袍チャイナドレスを纏った人が涙ながらに手を握ってきた。


「本当に良かった」


 お父さんも短髪の髪型こそそのままだけど、肥った体に食い込みそうな黒地の長袍を着ている。


「アーメイ、三日も意識が無かったのよ」


 北海道の医大に通っているはずの従姉の梅香うめかちゃんも木綿の紅梅色の旗袍に白い前掛けをしている。


「二の姐様ねえさま、今日はお誕生日ですわ」


 こちらは山形に住んでいる従妹の櫻子さくらこちゃんに違いないが、中学のバスケ部に入ってショートに切り揃えたはずの髪をお団子頭にして桜色の旗袍を着ている。


「雛人形を飾ってお祈りした甲斐がありました」


 先程のお爺さんが指し示す先には見慣れた緋色の絨緞を敷いた段があり、私の知る雛人形とは遠目にも似ていて少し異なる人形たちが並べられていた。


「ジェンが遠くまで薬草を買いに行って手に入れてくれたのよ」


 お爺さんを示して語る梅香ちゃんの言葉に両親が微笑んで首肯く。


「本当にありがとう」


 どうやら一人だけ見知らぬこのお爺さんはジェンというらしい。


 *****


「だから、あなたの名は李桃花リー・タオホアなの。あざな玲玉リンユイ


 小豆旗袍のお母さんは苛立った面持ちに幾分悲しげな色を滲ませながら万年筆で取り出した紙に“李桃花”“玲玉”と記す。


 面差しや声はもちろん、この幾分右肩上がりの筆跡も間違いなくお母さんだ。


「モモカなんて昔のトウエイジンみたいじゃないの」


“東瀛人?”


 右肩上がりの走り書きが紙の隅っこに新たに付け加えられる。


 私の名は山下桃花やましたももか、二十一世紀の横浜に住む日本人女子高生のはずだ。


 コロナウィルスの流行で通っていた学校が休校になり、マスク、トイレットペーパー、ティッシュ、そして生理用ナプキンも品薄になった。


 あの日は両親と手分けして買い出しに出掛け、その帰りに交通事故に遭ったのだ。


 正確には、目の前でみるみる自動車が大きくなって全身が爆発するような衝撃と共に意識が消えた。


「奥様、お嬢様はまだ病み上がりですから」


 東洋人離れした長身に灰色の髪と目をした、しかし、服装は中国服のジェンが湯気立つお茶を二つの茶碗に灌ぎながら控えめに告げる。


 しっとりとした若葉を思わせる芳香がこちらにも漂ってきた。


 これは何のお茶だろう?


龍井茶ロンジンチャでございます」


 こちらを眺める淡い色の瞳はどこか寂しげに微笑んだ。


 元の世界の私はごく一般的な家庭の娘だ。こんな品の良いお爺さんが恭しく仕えてくれるようなお嬢様ではない。


 *****


「これ、足に合わないよ」


 桃色の旗袍に合わせて作られた風な、朱鷺色の絹地に白や赤の花々を刺繍した、妙に先尖った形の布靴。


 履いた瞬間、足の指が両脇から締め付けられたようだし、立ち上がれば、微妙に高く作られた踵の辺りが落ち着かない。


「せっかく誕生祝いと雛祭りを兼ねて作ったんじゃないの」


 嘆息するお母さんの足許を見やると、やはり臙脂えんじ色の絹地に朱雀を刺繍した、私よりもっときつそうで踵ももう少し高い靴を履いていた。


「今の若い人は恵まれているのに我慢が足りないんだから」


 お母さん、こんな靴履いてたら外反母趾になっちゃうよ?


 この世界に「外反母趾」に該当する言葉があるかは知らないが、それは該当する症状自体が無いことと同義ではない。


「お嬢様、お綺麗ですよ」


 ジェンが三面鏡を持ってきて開いた。


 そこにはお団子頭に桃花を象った簪を挿し、桃色の旗袍を纏った、しかし、顔形は元の世界と全く同じ私が三つの角度から映っていた。


「ご病気になる前とお変わりありません」


 それならどうして貴方もそんな悲しい笑い方をするの?


 曇りかけた顔を映し出す三面鏡はさっと閉じられた。

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