第21話 母の鎖に絡まる長女
「こんなに曲がっているのを見て、おかしいと思わないの」
「申し訳ございません」
「もう謝らなくていいわ。次から他の者にやらせます。もう一度へまをやったら、王宮から出て行ってもらいますからね」
母がぴしゃりと言い放つ。下女はもう一度詫びの言葉を述べたが、母は彼女を見もしない。下女の目に涙がたまりかけていることにすら、気付いていなかった。手本のように背筋を伸ばし、歩き出す。
またこの調子か、とリディは内心ため息をついた。母の悪い癖が出ている。それに気付いたリディは、歩みを止めた。
「カヤール」
さっき叱られていた下女の名を、小さく呼ぶ。下を向いて唇を噛んでいた彼女は、動揺をあらわにしたまま顔を上げた。
「は、はい」
「仕事が一つ減ったな。そこでどうだ、私の部屋に花を置いてみないか」
「そ、そんな。私は失敗して……」
「だから今度はうまくやるだろう。曲がっているのも、味があるじゃないか。──母上はああいう人だから。何を言われてもあまり気にせんことだ」
最後の一言は、特に声をひそめて言う。それを聞いた下女はようやく、笑みを浮かべた。
「は、はい」
「頼むぞ」
リディは手を振って歩き出した。自分の言葉が少し人の救いになったと思うと、さっきの不安が遠くへいくように思える。廊下の真ん中でいぶかしげな顔をしている母に、ようやく追いついた。
「何をやっていたのですか」
「祝いを言いたいという者がたくさんおりましたので」
リディは素知らぬ顔で誤魔化す。目の前には渋い表情の母がいるが、もうどうにでもなれという心境だ。
「……いいわ、いらっしゃい」
完全に開き直ったのがよかったのだろうか。母はそれ以上追求をせず、自室に消える。部屋の中から、子供の声が聞こえてきた。リディの弟、王の長男である。
「おかえりなさい、お母さま」
弟が精一杯、真面目な対応をしている。九つの男の子など悪戯したい盛りだろうに、彼も母の前ではおくびにも出さない。
「帰ったぞ」
リディも部屋に入る。休む空間のため、壁には色がなく浮き彫りのみだ。二間つづきの部屋には、なかなか手に入らない古木をふんだんに使った家具が立ち並び部屋にさらに落ち着きを加えている。
「姉様」
弟の顔がぱっと輝いた。可愛いと思うと同時に、「似ている」とリディは思う。自分ではなく、あのアイラとそっくりだ。黄味の強い金色の髪に緑の瞳、そしてつり上がった勝ち気そうな目尻。父王の特徴を受け継いだのは、多くの子の中でもこの二人だけだ。
今までの掛け合いが蘇ってきて、リディは苦い思いに浸る。
「姉様?」
弟の声で、リディは現実に引き戻された。
「ああ、悪い」
「たくさんお話、聞かせてください。選抜の話がいいな」
弟は儀式の話をしきりにせがむ。思考できる環境ではないので、リディは諦めてできる限り問いに答えてやった。
湖の前に集められ、いきなり試験が始まったこと。選ばれた者で協力し合って他の候補者を守り、怪物を退けたこと。リディの話が進む度に、弟は手をうって喜んだ。
「……もうこんな時間か」
せがまれるまま話していると、時計の針がⅩ時を回っていた。リディは弟をせきたてて、寝床につれていく。
「まだ眠くないよう」
「いつも寝る時間は、とっくに過ぎたぞ」
だだをこねる子供に理屈は効かない。結局、無理に引きずりこんで強制的に掛布をかぶせ眠らせた。リディは、やれやれとため息をつく。これからもっと骨の折れる仕事が待っているのに、余計な体力を使ってしまった。あそこまで弟を興奮させてしまった自分が恨めしい。
リディは隣の間の長椅子に戻る。寸分の狂いもなく、いつも同じ場所にある家具。埃ひとつかぶっていない、飾り棚の上の鳥の彫像たち。完璧に整えられた部屋の中央で、母は暗い顔をしていた。
「母上。明日に備えて、私はもう休みます」
「……お父様は、いらっしゃいませんでしたね」
母がこぼす。彼女はリディの話を全く聞いていなかった。
「これからいらっしゃるでしょう。父上の寝室はここしかありませんよ」
リディはつとめて明るく言ったが、気休めでしかないことは分かっていた。自分すら納得しない言葉で母が安心するはずもなく、辛気くさい会話が次々と口をついて出る。
「どうして早々に帰ってくださらないのかしら。今日はリディの晴れの日なのに」
つぶやき続ける母。残酷なことに、リディはその問いに答えを見つけていた。父にとって、母は大して重要ではないからだ。
王の第一妃、第二妃ともなれば、本人同士の好き嫌い以上に家の釣り合いが問われる。母と父は周囲の都合によって結びつけられ、夫婦として過ごしてきた。しかし第三妃以降は父が自分で選んだ妃である。彼がそちらに会いに行きたがるのは自然なことだった。
せめて母上が、もっとおおらかな性格であれば。リディは悔やむ。
娘のひいき目かもしれないが、母は二人の子を産んでもすらりとした美しい体型を保っている。決して、容色で他の妃には劣っていない。父が寄りつかないのには、他の理由があるのだ。
下女に対する態度で明らかなように、母は間違いというものを忌み嫌っている。人間は常に正しく完璧にあるべきで、そうでないなら努力不足の怠け者だと本気で思っているのだ。だが、人というのはそう単純にできていない。
誰でも必ず失敗するし、時には弱音を吐きたい時もある。王座にいる父ならなおさら、裏で話したいことも色々あるに違いない。寝所ですらそれを許されないなら、ひたすら息が詰まって苦しいだけだ。そんな場所に、率先して来る男がいるものか。
それでも、父は第一妃という立場を尊重して二人の子を成した。しかし逆に言えば、これで王族としての義務は果たしたということだ。母が態度を改めなければ、ずっとこのまま避けられ続けるだろう。やはりそれは良くない、とリディは思い賭けに出た。
「母上。カヤールのことですか」
「たかが下女の話を、今しようというのですか。とんでもない」
「しばらく私の部屋を担当してもらうことにしました。私室なら客人も入りませんし、練習にはちょうどいいでしょう」
「まあ」
「機会を与えれば、人は成長しますよ。次の成長を楽しみに待ちませんか」
「下賤の身ならそれで許されるのでしょうね、うらやましいわ」
これはだめだ。リディは早々に匙を投げた。
リディが揚げ足をとると、母は口をへの字に曲げた。人生というのは、どうして自分だけに厳しいのだろうと言いたげである。大きくなった娘が敵に回ったと感じられると、後がやりにくくて困ってしまう。他にも言いたいことはあるが、何を言っても上の空だろうとリディは判断した。
リディはできるだけ母の耳に心地よい情報を流した。これは単なる保身である。王と子を成した母の発言力は実家でも桁違いに強く、喧嘩しても勝てる見込みなどない。母が父の来訪に期待をかけている間に、なんとか理由をつけて隣室に避難した。
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